電気看板の神経
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)冒頭《ぼうとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一応|断《ことわ》っておくがね、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)京ぼん[#「ぼん」に傍点]に頼んで、
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冒頭《ぼうとう》に一応|断《ことわ》っておくがね、この話では、登場人物が次から次へとジャンジャン死ぬることになっている――というよりも「殺戮《さつりく》される」ことになっているといった方がいいかも知れない。そういう点に於《おい》て「グリーン家《け》の惨劇《さんげき》」以来、血に乾いている探偵小説の読者には、きっと受けることだろうと思うんだ。しかし小説ならば兎《と》に角《かく》、いやしくも実話であるこの物語に於て――たとえそれが秘話《ひわ》の一つとして大事にしまって置かれてあるものにせよ――あまりにも、次から次へと死ぬ奴がでてくるもんで、馬鹿馬鹿しいモダンチャンバラ劇をみているような気がしないのでもないのだ。だが、そんな気で、この秘話を聞き、今日の世相を甘く見ていると、飛んでもない間違《まちが》いが起ろうというものだ。たとえば今日《こんにち》アメリカに於《お》ける自動車事故による惨死者《ざんししゃ》の数字をみるがいい。一年に三万人の生霊《せいれい》が、この便利な機械文明に喰《く》われてしまっている。日本に於ても浜尾子爵閣下《はまおししゃくかっか》が「自動車|轢殺《れきさつ》取締《とりしまり》をもっと峻厳《しゅんげん》にせよ」と叫んで居られる。機械文明だけではない。あらゆる科学文明は人類に生活の「便宜《コンビニエンス》」を与えると同時に、殺人の「便宜」までを景品として添《そ》えることを忘れはしなかった。これまでの日本人には大変科学知識が欠けていたし、今でも科学知識の摂取《せっしゅ》を非常に苦しがっている。だが、若い日本人には、科学知識の豊富なものが随分と沢山できてきた。少年少女の理科知識に驚かされることが、しばしばある。若い男子や女子で、工場で科学器械のお守りをしながら飯を食っているというのがたいへん多くなってきたようだ。若い人々にとって科学知識は武器である。彼等はなにか事があったときに、その科学知識を善用《ぜんよう》もするであろうが、同時にまた悪用《あくよう》の魅力《みりょく》にも打ち勝つことができないであろう。実際彼等のあるものから見れば殺人なんて、それこそ赤ン坊の手をねじるより楽なことなのだ。しかし彼等のそうした科学的殺人事件が、あまり世間に報導《ほうどう》せられないわけは、一つには彼等は殺人の容易《ようい》なることは知っていても、殺人の興味がないし、その味をも知らないことに原因する。また二つにはその方法処置が完全で、犯行の全然判らない点もあるし、たとえ判ったにしても犯人たるの証拠が全然残されていないことにも原因するのだ。……
いや、莫迦《ばか》に「論文《エッセイ》」を述べたてちまったが、実は、この論文の要旨《ようし》は、僕の頭の中に浮びあがる以前に、これから話そうという「電気恐怖病患者《でんききょうふびょうかんじゃ》」の岡安巳太郎《おかやすみたろう》君が述べたてたものなんで、その聴手《ききて》だった僕は、爾来《じらい》大いに共鳴《きょうめい》し、この論説の普及《ふきゅう》につとめているわけなんだが、全くその岡安巳太郎という男は、科学的殺人が便宜《べんぎ》になった現代に相応《ふさわ》しい一つの存在だった。岡安はいまも言うとおり、今日人殺しなんて容易に出来る、ところが自分は小学校時代から算術と理科がきらいで、中学生時代には代数《だいすう》、平面幾何《へいめんきか》、立体《りったい》幾何、三角法と物理化学に過度の神経消耗《しんけいしょうもう》をやり、遂にK大学の理財科《りざいか》を今から三年前に出た「お坊ちゃん」なのだ。科学知識とはまるで正反対の側に立っているという人間で、科学を呪《のろ》うこと迚《とて》もはなはだしく、科学的殺人の便宜を指摘する夫子《ふうし》自身《じしん》はいつか屹度《きっと》この「便宜《コンビニエンス》」の材料に使われて、自分はきっと天寿《てんじゅ》を俟《ま》つ迄もなく殺害《さつがい》せられてしまうに決っていると確信しているのだから、実に困ったものだ。この先生は、機械文明にも一応恐怖心を表明しているが、更に始末《しまつ》のわるいのは電気文明に対する絶対的の恐怖心である。機械文明の方は自動車にしても、汽車にしても、トロッコにしても(彼は一度|郊外《こうがい》で、赤土《あかつち》を一杯積んだトロッコに轢《ひ》かれ損《そこな》ったことがある)、音響なり、速度のある車体の運動なりが、一応耳なり眼なりの感覚に危険を訴えて呉れるから、比較的安全だ。それに反して、電気文明の方は、電気の流れていることが、眼にも見えなければ、耳にも聞えやしない。そして誤って触れると、ビリビリッと来て、それでおしまいである。電気の来ていることが判った次の瞬間には、感電死で、自分の心臓はもうハタと停っている。一度停った心臓は時計とちがって二度と動いてくれない。電気を意識したときには、既に己《おのれ》が生命《せいめい》は絶たれている。これほど、人情のない惨酷な存在が外にあろうか。しかも警視庁は、電気の来ていることについて何等の表示手段をとっていない。電線なんてものは皆|鼠《ねずみ》色か黒《くろ》色で、銅《どう》が錆《さ》びた色とあまりちがわない。こうした眼に立たない色だから、つい気がつかないで電線を握っちまったり、トタン塀《べい》を帯電《たいでん》させたりするのだ。その危険きわまる電線が生命の唯一の安全地帯である住家《いえ》の中まで、蜘蛛《くも》の巣《す》のように縦横無尽《じゅうおうむじん》にひっぱりまわされてある。スタンドだ、ヒーターだ、コーヒー沸《わか》しだ、シガレット・ライターだ、電気|行火《あんか》だ、電気こてだと、電気が巣喰っている道具ばかりが出来て殺人の危険は、いよいよ増加してきた。それに最も戦慄《せんりつ》を禁じ得ないのは、そうした電気器具がほとんど全部といっていいほど、金属で出来ていることだ。金属ほど電気をよく伝えるものはない。それになにをわざわざ、危険きわまる金属を選んで使用するのであるか、警視庁の保安課なんて、一体どんな仕事をやっているのかと言いたくなる。――岡安巳太郎は、色蒼ざめた顔を上下にふり乍《なが》ら、よく憤慨《ふんがい》したものさ。
岡安の電気恐怖病症状については、この上述べると際限《さいげん》がないので、この辺でよしたい。「俺は電気に殺されるに違いないんだ」と彼は口癖《くちぐせ》のように言っていたもんだ。その度《たび》に春ちゃん――これが例のカフェ・ネオンの女給で「カフェ・ネオンの惨劇《マーダー・ケース》」の一|花形《はながた》であるわけだが――から「またオーさんのお十八番《はこ》よ[#「お十八番《はこ》よ」は底本では「お十八《はこ》番よ」]。そんなに心配になるんなら、岩田の京ぼん[#「ぼん」に傍点]に頼んで、いっそ一《ひ》と思いに、感電殺《かんでんころ》しをやってもらえばいいじゃないの、オーさんッ」と、尻上りの黄色い声を浴びせかけられていたものさ。この岩田の京ぼん[#「ぼん」に傍点]、本名《ほんみょう》京四郎というのは、カフェ・ネオンから一丁ほど先にある電気商の若主人で、ネオンの新築当時、電燈や電熱器の配線工事をやった関係があって、それからこっち、客になってはウイスキーを舐《な》めに来たり、また出入《でいり》の電気屋として配電の拡張《かくちょう》工事や、問題のネオン・サインの電気看板の取付けにやって来たりなどして、どっちかと言うとカフェ・ネオンの特別客というわけだった。尤《もっと》も若い男のことだから、美しい女給の誰かにお思召《ぼしめし》のあったらしいことは言うだけ野暮《やぼ》である。話がどうやら脱線の模様だが、京ぼん[#「ぼん」に傍点]に電気で殺して貰えなどと言われると、岡安先生は眼を一ぱい見開いたまま、一同から身を遠ざけるために、隅っこの羽目板《はめいた》へペタンと身体をへばりつけてしまう。そのとき春ちゃんが「ホラ懐中電燈! ホラ、電気よ!」と言って岡安の横腹を、ちょいと突《つ》っつくと彼はキャッと言うような声をあげて三尺ばかり飛び上る、その恰好がとても面白いというので、春ちゃんが、退屈さましにときどき用いる。外《ほか》の女給も人の悪いのばかりで、めいめいの客をほったらかして置いてわざわざこれを見に来るという騒ぎさ。その騒ぎが大きくなりすぎたと思われる頃になると、鈴江という半玉《はんぎょく》みたいな女給が青い顔をして皆のところへやって来る。「あたい、気味がわるいから、キャッキャッ言わせるの、よしてよ」そういうと春ちゃんが、鈴江をぎゅっと睨《にら》んで、何か呶鳴《どな》りたいらしいんだが、そいつをモグモグと口の中に押しかえして黙っちまう。この気配《けはい》に一同もくさっちゃってそれぞれ元の客席へ退散という段取りになるのが例だった。この光景を、見ていて見ていないふりをしている奴に、カウンター兼給仕長の圭さんというのが居る。これは本名を鳥居圭三《とりいけいぞう》という三十五にもなる男でカフェ・ネオンの現業員《げんぎょういん》の中でも最年長者なのだ。こいつは、内々《ないない》春ちゃんに気があるらしい。もっとも春ちゃんはネオンのプリマドンナだから、お客といわず、従業員といわず、なんとかなるものなら是非一度は桃色のチャンスを持ちたいものをと願っていなかったものは無かろう。給仕長の圭さんは、白い上着《うわぎ》を酒瓶《さけびん》の蔭にかくしてなにか整頓に夢中になっているように見せて置いて、然《しか》るのち、その蔭に鈴江をよびこむと、春ちゃんの機嫌をわるくするようなことを言っちゃならねぇぞと、薄気味《うすきみ》わるい表情と口調とで、訓戒《くんかい》を与えるのだった。面白いのは、訓戒を与えているのに、春ちゃんが気付くと、彼女は燕《つばめ》のように忽《たちま》ち圭さんの前にとんで行き、「余計なおせっかいだよ、すうちゃん、あっちへ行っといで……」と逆に圭さんに喰《く》ってかかる。圭さんはなにも言わないで、ニヤニヤ笑っているところで幕になるのが、毎度のことであった。その圭さんは、この幕切れには納《おさま》りかねるものと見え、それから舞台裏のコック部屋へ入りこんで、コックの吉公《きちこう》と無駄口を叩きはじめる。吉公というのは祖父江春吉《そふえはるきち》が本名で、本来なら春公とか何とか言うのがあたりまえなんだが、彼がこのカフェに来る前に既に春ちゃんと呼ばれる女給が居た関係上、春吉の方は春公とは言わないで、吉公とよばれていた。圭さんと吉公とはまあ仲のいい方で、そして二人はカフェ・ネオンに於ける正《まさ》しく男子現業員の全部で、そして気の毒にも一階受持ちの女給八人、二階受持ちの女給七人、合計十五人の娘子軍《ろうしぐん》に対し、名実共に頭が上らなかったのである。
こうした風景が、カフェ・ネオンにおいて表面は案外平凡にくりかえされているうちに、突如として大惨劇《だいさんげき》の黒雲《くろくも》が、この家の上に舞い下《くだ》った。それは月も氷《こお》るという大寒《たいかん》が、ミシミシと音をたてて廂《ひさし》の上を渡ってゆく二月のはじめの夜中の出来ごとだった。カフェ・ネオンの三階の寝室で、春ちゃんが惨殺《ざんさつ》されてしまったのである。その寝室には春ちゃんの外《ほか》に四人の女給が、思い思いの方向に枕を置いて寝ていたのであるが、不思議なことに、彼女達は、春ちゃんの殺されたことを朝の十一時まで全く知らなかったのである。丁度《ちょうど》その時刻のすこし前に給仕長の圭さんが出勤して来て、階下のコック室《べや》に独寝《ひとりね》をしていた吉公を叩《たた》き起すと、その勢いで三階の娘子軍の寝室までかけ上ったところ、蒲団をまくられても寝
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