独本土上陸作戦
――金博士シリーズ・3――
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)金博士《きんはかせ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)精神|錯乱《さくらん》の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆疑問符、1−8−78]
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1
およそ新兵器の発明にかけては、今日世界に及ぶものなしと称せられる金博士《きんはかせ》が、とつぜん謎の失踪《しっそう》をとげた。
おどろいたのは、ここ上海《シャンハイ》市の地下二百メートルにある博士の実験室に日参していた世界各国の兵器スパイたちだった。
実験室は、きちんと取片づけられ、そして五分置きに、どこからともなくオルゴールが楽《がく》の音《ね》を響かせ、それについで、
“余《よ》は当分《とうぶん》失踪する。これは遺書《いしょ》である。ドクトル金”
と、姿は見えないが、特徴のある博士の声で、この文句がくりかえし響くのであった。
録音による遺書が、オートマティックに反復《はんぷく》放送されているのだった。
あの新兵器発明王金博士のとつぜんの失踪!
博士を監視していた五十七ヶ国のスパイは、いずれも各自の胸部《きょうぶ》に、未《ま》だ貫通《かんつう》せざる死刑銃弾の疼痛《とうつう》を俄《にわ》かに感じたことであった。
一体、博士はどこへ行ってしまったのであろうか。
人騒がせな博士の失踪は、精神|錯乱《さくらん》の結果でもなく、況《いわ》んや海を越えて和平勧告《わへいかんこく》に行ったものでもなかった。しかし金博士の上陸したところは、スコットランドであって、グラスゴー市の西寄りにある秘港《ひこう》グリーノックであった。
金博士は、上陸に際し、右足の踵《かかと》に微傷《びしょう》を負ったが、それは折柄《おりから》丁度《ちょうど》、英軍の高射砲が襲来独機《しゅうらいどくき》を射撃中であって、その高射砲弾の破片《はへん》が、この碩学泰斗《せきがくたいと》の右足に当り、呪いにみちた傷を負わしめたのであった。が、まあ大したことはなかった。
「上陸第一歩に際し、イギリス官憲のみならず、イギリス高射砲隊からもこの鄭重《ていちょう》なる挨拶《あいさつ》をうけようとは、余の予期せざりしところである」
と博士は、折から空襲実況中継放送中のBBCのマイクを通じて、訪問の初挨拶をしたのであった。
接伴《せっぱん》委員長のカーボン卿《きょう》は、金博士が、あまりにも空爆下《くうばくか》に無神経でありすぎるのに愕《おどろ》き、周章《あわ》てて持薬《じやく》のジキタリスの丸薬《がんやく》をおのが口中《こうちゅう》に放りこむと、金博士を桟橋《さんばし》の上に積んだ偽装火薬樽《ぎそうかやくだる》のかげに引張りこんだ。
「ああカーボン卿、ドイツ空軍のために、こんなに行《ゆ》き亘《わた》って爆撃されたのでは、借間《しゃくま》が高くなって、さぞかし市民はたいへんであろう」
「おお金博士。仰有《おっしゃ》るとおりです。借間の払底《ふってい》をはじめ、そのほかわれわれイギリス国民を困らせることが実に夥《おびただ》しいのです。このときわれわれは、はるばる東洋から博士を迎え得て、千万トンのジャガ芋《いも》を得たような気がいたしまする」
「ジャガ芋とは失礼なことをいう、この玉蜀黍《とうもろこし》め」
と、博士は中国語でいって、
「この空爆の惨害《さんがい》を、余にどうしろというのかね」
「いやいや、余は何とも申したわけではない。博士どの。イギリス上陸のとたんに、ぜひとも御注意ねがわねばならぬことが二つありまする」
「二つ? 何と何とかね」
「一つは、さっき申し遅れましたが、味方の撃ちだす高射砲弾の害。もう一つは、おそろしきスパイの害。――とにかく街上でもホテルでも寝床の中でも、おそるべきスパイが耳を澄して聞かんとしていると思召《おぼしめ》して、一切語りたもうなよ」
「本当かね。まるでわが上海《シャンハイ》そっくりじゃ」
「故《ゆえ》に、物事を、スパイや敵国人のため妨害されないで、うまく搬《はこ》ぼうと欲すれば、それ、決して何人にも機密を洩《も》らすことなく、自分おひとりの胸に畳《たた》んで、黙々として実行なさることである」
「お前さんのいうことは、むずかしくて、余には分らんよ」
「いや、つい騎士倶楽部風《きしクラブふう》の言葉になりましたが、要するに、自分の思ったとおり仕事をやりとげるためには、機密事項は一切お喋《しゃべ》りなさるなという忠言です」
「なるほど、壁に耳あり、後にスパイありというわけじゃね。よろしい。今日只今より、大いに気をつける。尤《もっと》も、わしはスパイ禍《か》をさけることなら、上海でもって、相当修業して来ておりますわい」
「それを伺《うかが》って、安心しましたわい」
折から高射砲は、撃《う》ち方《かた》やめとなり、往来はようやく安心できる状態となった。そこで瘠躯鶴《そうくつる》の如きカーボン卿は、樽のかげから外に出て、一応頭上を見上げたうえで、樽のかげの金博士の手を取って、引張り出したのであった。
「さあ、今のうちに急いで参りましょう」
「はて、余はどこへ連れていかれるのじゃな」
「行先は、今も申したように、スパイを警戒いたして申せませぬ。しかし、向うへ到着すれば、そこが何処だかお分りになりましょう。グローブ・リーダーの巻三には、『ロンドン見物』という標題《ひょうだい》の下《もと》に、写真入りでちゃんと詳《くわ》しく出て居ります場所です」
「ありゃ、行先はロンドンですかい」
「ロンドン? あっ、それをどうして御存知《ごぞんじ》ですか。博士は、読心術《どくしんじゅつ》を心得て居らるるか、それともスパイ学校を卒業せられたかの、どっちかですなあ」
「あほらしい。お前さんが今、ロンドン見物の標題で云々《うんぬん》といったじゃないか。お前さんがたのここんところは、連日連夜のドイツ軍の空爆で、だいぶん焼きが廻っていると見える」
そういって、金博士は、自分の頭を、防毒マスクの上から、こつこつと叩いてみせた。
2
ロンドンの地下ホテルの大広間で、国防|晩餐会《ばんさんかい》が催《もよお》されている。
その大広間は、一見《いっけん》ひろびろとしていた。ただ真中のところに、一つの卓子《テーブル》と、それを取囲む十三の椅子とが、まるで盆の真中に釦《ボタン》が落ちているような恰好《かっこう》で、集っていた。そして卓上には、贅沢《ぜいたく》な料理が、大きな鉢に、山の如く盛り合わされ、そしてレッテルを見ただけで酔っぱらいそうな古いウィスキーやコニャックが、林のように並んでいた。
そのとき、広間の北側の扉《ドア》が、さっと左右に開いて、金ぴかの将軍が十二人と、それから肘《ひじ》のぬけそうな黒繻子《くろじゅす》の中国服を着た金博士とが、ぞろぞろと立ち現れて、その設《もう》けの席についた。
「さあ、ぼつぼつ始めましょう」
「各自、お好きなように、セルフ・サーヴィスをして頂きましょう」
ボーイたちは、完全にこの大広間から追い出されていた。しかもこの料理は、五百パーセントの闇値段《やみねだん》で集められた豪華な料理であって、これ全《すべ》て、遠来《えんらい》の金博士――いや、イギリス政府及び軍部が今は命の綱と頼む新兵器発明王の金博士に対する最高の饗応《きょうおう》であったのである。
「さて、早速《さっそく》ではあるが、金博士に相談にのっていただくことにする」
と、座長格の世界戦争軍総指揮官ゴンゴラ大将が口を開いた。
「なるべくなら、この御馳走を全部頂戴してののちに願いたいものじゃが」
金博士は残念そうにいう。
「いや、事が事とて、ぐずぐずして居れないのです」
と、総指揮官ゴンゴラ大将は、かまわず話をすすめる。
「これは今夜はじめて諸君にかぎり発表する最高の機密であるが、実は、わがイギリス軍は、最早《もはや》如何《いかん》ともすべからざる頽勢《たいせい》を一挙に輓回《ばんかい》せんがために、ここに極秘《ごくひ》の作戦を研究しようとしている。それは如何《いか》なる作戦であるか」
と、ゴンゴラ大将は、そこで大いに気を持たせて、一座を見廻した。
(おや、十三の座席は、縁起《えんぎ》でもない)
将軍は、ちょっと顔を曇らせたが、胸の前で十字を切って、
「それは外でもない。十三――いや、諸君、愕《おどろ》いてはいけない。吾輩《わがはい》は、ここに極秘の独本土上陸作戦《どくほんどじょうりくさくせん》を樹立《じゅりつ》しようと思う者である」
一座は、俄《にわ》かにざわめいた。将軍のなかには愕いて、手にしていた盃《さかずき》を取落とす者もあり、嚥《の》み下ろしかけていた若鶏《わかどり》の肉を気管《きかん》の方へ送りこんで目を白黒する者もあった。ただ平然として色を変えず、飲み且《か》つ喰《くら》う手を休めなかったのは金博士ばかりだった。
「独本土上陸作戦、それは英《えい》本土上陸作戦の誤植《ごしょく》――いや誤言《ごごん》ではないか」
「否《いな》、断じて、独本土上陸作戦である」
「ほほっ、ゴンゴラ総指揮官の精神状態を医師に鑑定せしめる必要ありと思うが、如何に」
「いや、もう一つその前に、全国の空軍基地に対し、単座戦闘機《たんざせんとうき》にゴンゴラ将軍を搭乗《とうじょう》せしめざるよう厳重《げんじゅう》命令すべきである」
「その必要はあるまい。なぜといって、ゴンゴラ将軍は、幸《さいわ》いにして飛行機の操縦が出来ないから、安心してよろしい」
ゴンゴラ総指揮官は、頬をトマトのように赧《あか》くして、卓《たく》を叩《たた》いた。
「何人《なんびと》が何といおうと、独本土上陸作戦を決行する吾輩の決意には、最早変りはない。ドイツを屈服《くっぷく》せしめる途は只《ただ》一つ、それより外に残されていないのである」
一座は、尚も喧々囂々《けんけんごうごう》、納《おさ》まりがつかなくなった。あちこちで、同志討《どうしうち》までが始まる。
「なにも、そんな危い芸当をやらないでも、もっと確実に、しかも安全にドイツをやっつける方法があるんだ」
「そんなことはないでしょう。自分は総指揮官の作戦に同意する」
「それは愚劣《ぐれつ》きわまる。よろしいか。わしの考え出した作戦というのは、至極《しごく》簡単明瞭《かんたんめいりょう》である。それは、ドイツに対して『わがイギリスは貴国を援助するぞ』と申入れれば、それでよろしいのじゃ」
「なんだ、それは。敵国ドイツを助ければ、わがイギリスはいよいよ負けるばかりだ」
「それだから貴公《きこう》は、駄目だというんだ。ちと歴史を勉強しなされ、歴史を。今度の世界戦争以来、わがイギリスが援助をすると申入れた先の国で、滅びなかった国があるかね。ベルギーを見よ、和蘭《オランダ》を見よ、チェッコを見よ、ポーランドを見よ、それからユーゴを見よ。ギリシヤを見よ、蒋介石《しょうかいせき》を見よ。だから、われわれイギリスが、『ドイツよ、お前を助ける』と申入れただけで、ドイツも亦《また》、滅びざるを得ないであろう。これ、歴史上の事実から帰納《きのう》した最も正確にして且つ安全な作戦じゃ」
仲々一座の納りがつかないので、ゴンゴラ総指揮官は、席を立って、金博士のところへやって来た。
「金博士。吾輩の切なるお願いである。新奇なる兵器を作って、わがイギリスの沿岸《えんがん》から発し、独本土へ上陸せしめられたい」
このとき、金博士は、ようやく卓上の料理を悉《ことごと》く胃の腑《ふ》に送り終った。博士は、ナップキンで、ねちゃねちゃする両手と口とを拭《ぬぐ》いながら、
「ああ余は遠く来た甲斐《かい》があったよ。ほう、美味《びみ》満腹《まんぷく》だ。はて、何といわれたかね」
と、取り済ました顔である。
「おお金博士。今も申すとおり、吾輩の切な
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