毒瓦斯発明官
――金博士シリーズ・5――
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蒸《む》し暑《あつ》い
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)発明王|金博士《きんはかせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きゃあ[#「きゃあ」に傍点]
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1
蒸《む》し暑《あつ》い或る夜のこと、発明王|金博士《きんはかせ》は、袖《そで》のながい白服に、大きなヘルメットをかぶって、飾窓《かざりまど》をのぞきこんでいた。
南京路《ナンキンろ》の雑沓《ざっとう》は、今が真盛《まっさか》りであった。
金博士の視線は、さっきから、飾窓の小棚《こだな》にのせられてある洋酒の群像に釘《くぎ》づけになっている。いや、正しくいえば、その洋酒の壜《びん》にぶら下げられた値段札の数字に釘づけになっていたという方がいいだろう。
「あはは……」
博士がとつぜん声をあげた。これは決して博士が笑ったのではない。実は大歎息《だいたんそく》をしたのである、あははと……。およそ歎息というものは、感極《かんきわ》まってその窮極に達すればあたかも笑声のような音を発するものである。嘘だと思ったら、読者は御自分で験《ため》してみられるがよろしかろう。
「あはは、あの味のわるいウィスキーが一壜五百|元《げん》とは、べら棒な値段じゃ。その昔、重慶相場《じゅうけいそうば》というのがあったがその上をいく暴価《ぼうか》じゃ。同じ五百元でも、こっちのペパミントがいい。こいつを、氷の中に叩きこんで、きゅっきゅっとやると、この殺人的暑さは嵐にあった毒瓦斯《どくガス》の如く逃げてしまうことじゃろうが、それにしても五百元とは高い、今のわしの財政ではなあ」
金博士は、このごろアルコールに不自由をしている上に、金にも困っていると見え、さてこそ極限歎息《きょくげんたんそく》の次第《しだい》と相成《あいな》ったらしい。
丁度《ちょうど》そのときであった。金博士の頭を目がけて、一匹の近海蟹《がざみ》のようによく肥《こ》えた大蜘蛛《おおぐも》が、長い糸をひいてするすると下りてきた。そして、もうすこしで、金博士のヘルメットにぶつかりそうになって、ようよう下《さが》るのを停めた。おそるべき大蜘蛛だ。こんなやつに頸《くび》のあたりを喰いつかれ、生血《いきち》をちゅっちゅっ吸われたら、いかな頑固爺《がんこおやじ》の金博士であろうと、ひとたまりもなかろうと思われた。
「もしもし金|博士《せんせい》、おなつかしゅうございますなあ」
とつぜん、その大蜘蛛が金博士に言葉をかけたのだった。冗談《じょうだん》じゃない……。
「うん」
博士の鼓膜《こまく》に、その声が入ったのか、博士は生返事《なまへんじ》をした。生返事をしただけで、彼はなおも飾窓の青いペパミントの値段札に全身の注意力を集めている。
「博士《せんせい》は、いつに変らず御壮健《ごそうけん》で、おめでとうございます。この前、金博士にお別れをしてから、もうかれこれ五六年になりますなあ」
その化け物のような大蜘蛛は、しきりに金博士をなつかしむのだった。これを横から眺めていると、博士も亦《また》、蜘蛛の化け物じゃないかという疑いが湧《わ》いてくる。そういえば「新青年《しんせいねん》」誌上にのっている金博士の顔は、蜘蛛の精じみた風貌《ふうぼう》をもっているよ。
閑話休題《さて》、金博士は、ようやく注意力の二割がたを、蜘蛛の声に向けて割《さ》いた。
「おう、そういうお前は醤買石《しょうかいせき》じゃな。お前はまだ生きていたんか」
醤買石といえば、あの有名なる抗日遷都《こうにちせんと》将軍の名である。すると醤買石も、ついに人間の皮を被《かぶ》っては遷都する先がなくなって、遂に大蜘蛛に化けたのであるか。それとも、彼はオーストラリヤで戦車にのし烏賊《いか》られて絶命し、魂魄《こんぱく》なおもこの地球に停《とどま》って大蜘蛛と化したのであるか。
「あれ、金|博士《せんせい》。醤はそう簡単に死にませんよ。しかしとにかく、博士にお目にかかりたいばかりに、部下もつれずに単身、きびしい監視網《かんしもう》をくぐって、ようやくここまで参りました。そしてとうとう博士に行き会いまして、こんな嬉しいことはございません。ふふふふ」
ふふふふは、醤の笑い声ではない。感激の泣き声である。泣き声がその極致に達すれば笑い声に似たる――ああもうその解説はよろしいか。なるほど前にも鳥渡《ちょっと》書きましたなあ。
「泣くなよ、醤。お前は小便小僧《しょうべんこぞう》時代から泣きべそじゃったな。東に楠《くすのき》の泣き男あり、西に醤買石ありで、ともに泣きの一手《ひとて》で名をあげたものじゃ。で、わしに会いに来たというのでは、また何か大それた無心じゃろう」
金博士は、やっぱり前跼《まえかが》みになって、飾窓の中をのぞきこみながら口を動かした。博士は、まさか頭の上に忍びよったる大蜘蛛と話をしているのだとは気がついていない様子に見えた。
「やあ、そのとおり、それが図星《ずぼし》でございますよ。余《よ》――いや小生《しょうせい》はこのたびぜひとも博士《せんせい》にお願いをして、毒瓦斯《どくガス》をマスターいたしたいと決心しまして、そのことで遥々《はるばる》南海の孤島《ことう》からやって参りました」
「毒瓦斯の研究か。そんなむずかしい金のかかるものは、お前の柄《がら》じゃないぞ」
「いえ博士《せんせい》、そう仰有《おっしゃ》らないで、是非にお願いいたします。今こそ孤島に小さくなっていますが、昔日《せきじつ》の太陽を呼び戻すには、猛毒瓦斯を発明し、その力によってやるのでないと全く見込みなしとの結論に達し、博士にお縋《すが》りに参りました。ぜひともこの醤を哀《あわ》れと思召《おぼしめ》し……その代り、お礼の方はうんときばり、博士のお好みのものなれば、ウィスキーであろうとペパミントであろうと……」
「そうか。それは本当じゃな。男の言葉に二言《にごん》はないな――というて相手がお前じゃ仕様《しよう》がないが……」
といいながら、博士は飾窓から顔を放して腰を真直《まっすぐ》にのばしたものだから、さっきから垂《た》れ下っていた大蜘蛛が一揺《ひとゆ》れ揺れると、博士の顔へぴしゃと当った。さあたいへん、危《あやう》いかな博士の一命! 生かまたは死か?
2
……筆勢《ひっせい》あまって嚇《おど》し文句を連《つら》ねてはみたが、ここで金博士が、間髪《かんぱつ》を容《い》れず、顔にあたった大蜘蛛《おおぐも》を払いのけ、きゃあ[#「きゃあ」に傍点]とかすう[#「すう」に傍点]とかいってくれれば、作者も張合《はりあい》があるのであるが、当の博士は、別に愕《おどろ》きもなにもしない。甚《はなは》だ張合いのない次第であった。
愕くどころか、博士は、矢庭《やにわ》に手をのばして、その大蜘蛛の胴中《どうなか》をつかんだものである。
すると、ガラガラと、ラジオの雑音のようなものが聞えた。
金博士は、つかまえた大蜘蛛を口のところへ持って行き、声を一段と低くして、
「おい醤買石、今すぐわしは、お前の居る屋上へ上っていくから、すこし待って居てくれ。しかしお前も、こんどというこんどは余程《よほど》懲《こ》りたと見え、屋上から、蜘蛛に見まがうような擬装《ぎそう》のマイクと高声器をつり下げて、わしに話しかけるなんて、中々機械化してきたじゃないか、はははは」
「いや、ちとばかりソノ……」
「しかし、この無細工な蜘蛛を屋上からこの人通りの多い通りに吊《つ》り下ろすなんて、やっぱりお前は、垢《あか》ぬけのしないこと夥《おびただ》しい。この次からは、もっといい智慧を働かすがいい」
褒《ほ》められたと思った醤は、とたんにぺちゃんこにやっつけられた。
さて、ここは屋上である。例の洋酒店のあるビルの屋上であった。
のっそりと、非常梯子《ひじょうばしこ》からあがってきたのが金博士であった。非常梯子の上り口に立って、うやうやしく挙手《きょしゅ》の礼をして立っている二人の白いターバンに黒眼鏡に太い髭《ひげ》の印度人巡警《インドじんじゅんけい》! 脊の高い瘠《や》せた方が醤買石《しょうかいせき》で、脊が低く、ずんぐり肥っている方が、醤が特選して連れてきた前途有望な瓦斯師長《ガスしちょう》燻精《くんせい》であった。二人は、まるで舷門《げんもん》から上って来た司令官を迎えるように、極《きわ》めて厳《げん》たる礼をもって金博士に敬意を表《ひょう》した。
博士は、几帳面《きちょうめん》に礼をかえすどころか、いきなり醤の瘠せた肩をどんと叩いて、
「おい、ウィスキーにペパミントの約束、あれはまちがいないじゃろうな。一本が五百元もするぜ。お前そんなに金を持っとるか」
と、無遠慮《ぶえんりょ》な問いを発した。
「や、それはもう大丈夫です。御承知のとおり、昔からイギリスと深い関係がありますものですから、武力こそ瘠せ細っていますが、黄金であろうとダイヤモンドであろうとウィスキーであろうと、そんなものは、うんとストックがあります」
「ほ、ん、と、ですか」
「もちろん本当です。国《くに》破《やぶ》れて洋酒ありです。尤《もっと》も早いところストックにして置いたのですがね……しかし博士《せんせい》、毒瓦斯の方のことですが……」
「うん、毒瓦斯なんて、他愛《たあい》もないものじゃ。ウィスキーになると、そうはいかん」
「いや博士《せんせい》、ウィスキーなんて浴《あ》びるほどあります。毒瓦斯の研究となると、そうはいかん」
「よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が入用《いりよう》か。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが欲《ほ》しいかね」
下は人工灯《じんこうひ》の海、上は星月夜《ほしづきよ》、そして屋上は真暗《まっくら》だった。その真暗な屋上に立って、金博士は大きく両手をひろげる。
「そんなものは、どれも欲しくありません」
醤は人一倍大きな頭を左右に振る。
「ほう、これじゃ気に入らんのか」
「博士《せんせい》。余《よ》――いや私の欲しいものは、そんな従来《じゅうらい》から知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、吸着剤《きゅうちゃくざい》の活性炭《かっせいたん》と中和剤の曹達石灰《ソーダーせっかい》とを通せば遮《さえぎ》られるし、ゴム衣《い》ゴム手袋ゴム靴で結構《けっこう》避《さ》けられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって撒《ま》いても、効目《ききめ》がありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ」
南京虫退治《ナンキンむしたいじ》の新剤《しんざい》を探しているようなことをいう。
博士は、別段困った顔もせずに肯《うなず》き、
「わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ」
「それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか」
「ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない」
「しかし博士《せんせい》、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その超毒瓦斯《ちょうどくガス》を防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい」
醤は、熱心を面《おもて》にあらわしていった。
「ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分|高価《こうか》につくが、いいかね。まずウィスキーならダース入《いり》の函単位《はこたんい》でないと取引が出来ないが……」
「ダース函でも何でも提供しますとも」
「ほい、お前にも
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