似合わん、えらく気が大きいじゃないかい」
「博士《せんせい》、わしの報復《ほうふく》成《な》るかどうかという瀬戸際《せとぎわ》なんです。あに真剣にならざるを得《え》んやです」
「そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか」
「あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します」
「なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ」
「ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく博士《せんせい》と来たら、興《きょう》が乗れば、敵と味方との区別なんかもう滅茶苦茶《めちゃくちゃ》で、科学の力を残酷《ざんこく》に発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を経《へ》て来たもんです」
「醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては――」
「博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている腹心《ふくしん》の部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、早速《さっそく》全世界|覆滅《ふくめつ》の毒瓦斯を発明する鬼と化《か》して、全力をあげ全財産を抛《な》げうって発明官と一緒にやるつもりです」
醤は、満天の星を吸いこもうとするのではないかと思われるような大口をあいて、芝居気たっぷりに、途方もない重大決意を喚《わめ》き散らしたのであった。
「ええ加減にしろ。大言《たいげん》よりは、ウィスキーじゃ。ペパミントじゃ」
金博士が、醤に負けないような大きな声を出し、怒《おこ》った蟷螂《かまきり》のような恰好《かっこう》で、拳固《げんこ》で天をつきあげた。
3
博士の例の地下研究所の一室において、白い実験衣《じっけんい》を着た金博士と発明官|燻精《くんせい》とが向きあっていた。
二人は、手に手に盃《さかずき》を持っている。
実験台の上には、いろんな形をした洋酒の壜が、所も狭く並んでいる。
博士は盃を唇のところへ持って行き、黄色い液体を一口ぐっとのんで、後はしばらく唇と舌とをぴちゃぴちゃいわせた。
「……ふーん、どうもおかしい。燻精、お前のんでみろ」
「はい」
燻精が盃を唇のところへ持っていった。
「はい、のみました。実にこたえられない、いい酒ですなあ」
「そうかね。わしには、それほどに感じないが……」
「博士《せんせい》、それは先生のお身体の工合《ぐあい》ですよ。どこかどうかしていられるのです。糖分《とうぶん》が出ているとか、熱があるとかでしょう。私には、十分うまいですよ。やっぱりイギリス製のウィスキーだけありますねえ。これは英帝国《えいていこく》盛《さか》んなりし時代の生一本《きいっぽん》ですよ。間違いなしです」
「相当にうるさいね、君は」
「いや、酔払《よっぱら》ったんです。これもこの酒の芳醇《ほうじゅん》なる故《ゆえ》です。そこで先生、酒の実験はこのくらいにして、お約束ですから、かねがねお願いしてありました毒瓦斯研究の指導を早速《さっそく》お始めいただきたいのですが……」
「ふん、毒瓦斯研究の件か」
博士は何となく不機嫌《ふきげん》に、盃をがちゃんと台の上に置いて、
「では醤との契約に基き、正《まさ》しく履行するであろう。神経瓦斯について講義をする」
「あ、その神経瓦斯というものなら、既にドイツ軍がエベンエマエル要塞戦《ようさいせん》に使ったということを聞いています。それはもう陳腐《ちんぷ》な毒瓦斯で……」
「ドイツ軍が使ったという話のある神経瓦斯は、一時性《いちじせい》の神経麻痺瓦斯だ。それを嗅《か》いだベルギー兵は、恍惚《こうこつ》となって、しばらく何も彼もわからなくなった。もちろん、機関銃の引金《ひきがね》を引くことも忘れて、とろんとしておった。気がついたときには、傍《そば》にドイツ兵がいたというのだ。これは一時性の神経瓦斯だ。一時性では効力がうすい。これに対してわしが考えたのは、持久性《じきゅうせい》の神経瓦斯だ。これをちょっと嗅ぐと、まず短くても一年間は麻痺している。人によっては三年も五年もつづく。そうなると、その患者はもはや常人として責任ある任務をまかせて置けなくなる。どうだ、すごいだろう」
博士は、ようやく機嫌をとりかえした。
「それは、生理学からいうと、どんな作用をするのですか」
「つまり、脳細胞を電気分解し、その歪《ゆが》みを持続させるのじゃな」
「はあはあ、脳細胞を電解して歪みを持続させる……、それはおそろしいことだ。しかし電解させるというのなら、それは怪力線《かいりょくせん》の一種ではありませんか。毒瓦斯とはいえないでしょう」
燻精師長は、さすがに醤の信任があついだけに、するどく博士に突込《つっこ》む。
「怪力線の如きものでは、ぴりぴりちかちかと来て、相手に知れるから、よろしくない。もっと緩慢《かんまん》なる麻痺性のものでないといけぬ。わしの作った神経瓦斯は、全然当人に自覚《じかく》がないような性質のものだ。臭気《しゅうき》はない、色もなくて透明だ、もちろん味もない、刺戟《しげき》もない。もちろん極《ご》く緩慢な麻痺作用を起すものだから、はじめから刺戟を殺してあるのだ。しかもその後いつまでたっても当人は、瓦斯中毒になっているという自覚が起らないのだ。つまり常人《じょうにん》と殆んど変りない精神状態におかれてあって、しかも脳の或る部分が日と共に完全麻痺に陥《おちい》る。そうなると、たとえば、にこにこ笑って人と話をしていながら、手に握ったナイフで相手の心臓の真上《まうえ》をぐさりと刺すといったようなことを、一向|昂奮《こうふん》もせず周章《あわ》てもせず、平気でやる。まあ、そういう最も常人らしい狂人に変質させるのが、わしのいう持久性神経瓦斯の効果じゃ。どうじゃな。君もそういう方向のものを考えてみてはどうかな」
「す、すばらしいですなあ」
燻精師長は、盃を置いて、金博士に抱きついた。
「よせやい、気持のわるい」
と、金博士は燻精を突き放し、
「さあ、もうそれだけのヒントを与えてやれば、お前は醤のところへ帰って、早速《さっそく》発明研究を始めていいじゃろう。さあさあ、とくとく醤の陣営へ戻れ」
「はい。では、引揚げましょう。永々《ながなが》と御配慮《ごはいりょ》ありがとうございました」
「いやなに、たった十分間の講義だけじゃ。しかしあのウィスキーにペパミント百四十函は、授業料としては至極《しごく》やすいものじゃ」
「あれだけの夥《おびただ》しい洋酒を捧《ささ》げても、まだ先生の方が御損《ごそん》をなさいますか」
「それはそうじゃ。甚《はなは》だわしの方が損じゃ。帰ったら醤に、そういっていたと伝えてくれ。しかし神聖なるバーター・システムの誓《ちか》いの手前、こっちでもぬかりなく按配《あんばい》しておいたと、あの醤めにいってくれ。さあ、引取るがよろしかろう」
「はいはい承知いたしました」
燻精には、何やら腑におちかねる点もあったが、今が引揚《ひきあげ》の潮時《しおどき》だと思ったので、博士をいい加減《かげん》にあしらった。着換えをすますと彼は博士の前に出て恭々《うやうや》しく三拝九拝の礼を捧げ、踵《きびす》をかえして、部屋を出《い》でんとすれば、何思ったか金博士は、急にうしろから呼《よ》び留《と》めた。
「ああ、お帰りはこちらだ。この狭い廊下をずっといって、やがて突当ると、自動式の昇降機がある。それに乗って一階へ出なさい。すると至極《しごく》交通に便なところへ出る」
と博士は、壁の釦《ボタン》を押し、壁に仕掛けてあった秘密の潜《くぐ》り戸を開いて、指した。
「ああそれはどうも。こっちに通路があるとは、全く存知《ぞんじ》ませんでした」
「こっちは特別の客だけしか通さないんだ。暫《しばら》く誰も通さなかったから、顔に蜘蛛《くも》の巣がかかるかもしれない。手で払いのけながら、そろそろ歩いていきたまえ」
「いや、御親切に、ありがとう」
「どういたしまして。はい、さようなら」
潜り戸を入った燻精師長のうしろで、ぱたんと扉《ドア》のしまる音がした。と同時に、博士が扉の向うで、さめざめと啜《すす》り泣くような声を聞いたと思ったが……。
4
南国の孤島において、醤《しょう》委員長は、あいかわらずの裸身《はだか》で、事務を執《と》っていた。例の太い附《つ》け髭《ひげ》はもう見えない。
そこへ燻精が戻ってきた。
「おお帰ってきたか。して、金博士から、すばらしいネタを引き出したか」
「はい、持久性《じきゅうせい》の神経瓦斯《しんけいガス》……」
「叱《し》ッ。これ、声が高い!」
醤は、手の舞い足の踏むところを知らずといった喜び方であった。彼は、燻精の手をとらんばかりにして、彼を砂地《すなじ》の上に立つ古城《こじょう》へ連れていった。
「さあ、ここが毒瓦斯発明院だ。看板も、余《よ》が直々《じきじき》筆をふるって書いておいた」
なるほど、あちこち崩《くず》れている城門に、毒瓦斯発明院の立て看板が懸《かか》っていた。
「発明場は、すっかり用意をしておいたつもりじゃ。余|自《みずか》ら案内をしよう」
衛兵の敬礼をうけつつ、御両人は城内に入った。
「敵空軍の目をのがれるため、外観は出来るだけ荒《あ》れ果《は》てたままにしておいた。しかし、あの煙突だけは、仕方なく建てた」
太い煙突が古城の上にぬっと首をつきだしている。
「あれは何ですか、あの煙突は」
「試作《しさく》の毒瓦斯が空高く飛び去るためだ」
「毒瓦斯は元来空気より重きをよしとするのでありまするぞ。煙突から飛び立つような軽い毒瓦斯てぇのはありません」
「いや、その重い毒瓦斯の逃げ路も作っておいた。向うに見える太い鉄管《てっかん》は、海面《かいめん》すれすれまで下りている。重い毒瓦斯は、あの方へ排気《はいき》するんだ。風下はベンガル湾《わん》だ。海亀《うみがめ》とインド鰐《わに》とが、ちかごろ身体の調子がへんだわいといいだすかもしれんが……」
醤が毒瓦斯発明院に対して肩の入れ方は、非常なものだった。燻精は、彼の信頼に十分|報《むく》いることが出来ようと自信たっぷりだった。
発明院長に燻精が就任《しゅうにん》して、百三十五名の発明官が、その下に仕事を始めることになった。まず設備を作るのに、三ヶ月かかった。それから燻精の講義が三ヶ月つづいた。
燻精の講義は全くすばらしかった。ときどき傍聴《ぼうちょう》に来る醤買石《しょうかいせき》は、その都度、頤《あご》の先をつねって恐悦《きょうえつ》した。
「ふふふ、洋酒百四十函が、こんなにすばらしい効目《ききめ》があろうとは、すこし気の毒だったなあ」
燻精の指導ぶりは、目のさめるようであった。
原動機《げんどうき》は廻転し、ベルトはふるえ、軸《シャフト》は油をなめまわし、攪拌機《かくはんき》はかきまわし、加熱炉《かねつろ》は赤く焔《も》え、湯気《ゆげ》は白く噴き出し、えらい騒ぎが毎日のように続いた。
そうなると、醤は落ちついていられなくなって、毎日のようにここに足を運んだ。
「おい燻精。まだ例の神経瓦斯は出来ないか。出来たら、余に早く見せてくれ」
「醤委員長よ。今度こそすばらしいものが出来ますぞ。瓦斯密度《ガスみつど》が一・六〇〇〇四です。理想的な密度です。おどろいたでしょう」
「一・六〇〇〇四? よくわからないねえ」
「精密なること、金博士の製品を凌駕《りょうが》しています。かかる精密なる毒瓦斯は……」
「精密よりも、効目の方が大切だぞ」
「いや、この精密度なくして、あの忍耐力のつよい敵兵を斃《たお》すことは出
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