来ん。あ、また霊感が湧《わ》いた。おおそうか、この毒瓦斯に芳香《ほうこう》をつけるのだ。鰻《うなぎ》のかば焼のような芳香をつけるのだ。無臭瓦斯《むしゅうガス》よりもこの方がいい。敵は鼻をくんくんならして、この瓦斯を余計《よけい》に吸い込むだろう。ああなんというすばらしい着想点だろう! 鰻のかば焼の外《ほか》に焼き鳥の匂い、天ぷらの匂い、それからライスカレーの匂い等々《とうとう》、およそ敵兵のすきな香《かおり》を、この毒瓦斯につけてやろう。なんと醤委員長、すばらしい発明ではないですか」
「なるほど、積極的吸入性のある毒瓦斯じゃな」
醤は、にやりと笑って、燻精院長の手をしっかと握った。
この新製毒瓦斯が、予定の数量だけ出来上ったのは、その年の夏だった。
醤は燻を帯同《たいどう》し、その毒瓦斯をもって、突如《とつじょ》戦線に現れた。
そして朝から時間割を決め、午前七時には鰻の匂いのする神経瓦斯を、午前九時には水蜜桃《すいみつとう》の匂いのする神経瓦斯を、午前十一時には、ライスカレーの匂いのする神経瓦斯をと、用意周到な順序で次々に瓦斯弾《ガスだん》を、敵軍戦線へ向けて撃ちだしたのであった。
その結果は、どうであったか。
醤買石は、生命からがら、怒濤《どとう》のような敵の重囲《じゅうい》を切りぬけて、ビルマ・ルートへ逃げこむという騒ぎを演じた。
燻精の作った新製の毒瓦斯は、悉《ことごと》く無力であった。いや、うまそうな匂いをもって、反《かえ》って敵兵をふるい立たしめるという反効果《はんこうか》があったくらいであった。燻精は、その戦場において捕虜となり、やがて病院に入れられた。
この顛末《てんまつ》を聞いて、からからと笑ったのは余人《よじん》ならぬ金博士であった。
彼は唐箋《とうせん》をのべて、醤買石|宛《あて》に手紙を書いた。
“謹呈《きんてい》。どうだ、持久性神経瓦斯の効目は。燻精は、わしのところから出ていくとき、特設の通路内で無味無臭無色無反応の持久性神経瓦斯を吸って戻ったのだ。だから、そちらの陣営に帰りついたころから彼はそろそろ、脳細胞の或る個所が変になりはじめたはずだ。彼の発明製造した毒瓦斯なんか、どうして信用がおけようぞ。おい醤よ、これに懲《こ》りて、今後を慎《つつし》めよ”
なるほど、そうだったか。肝腎《かんじん》の毒瓦斯発明院長の燻精が、金博士のところを辞去《じきょ》するとき、瓦斯通路を歩かされ、すっかり瓦斯患者とされてしまったのを、当人はもちろん醤も気がつかなかったのだ。
この手紙を受け取った醤は、たいへん口惜しがって、豆のような涙をぽろぽろ机の上におとしながら、博士に向って抗議文を書いた。その要旨《ようし》は、
“金博士よ。バーター・システムの取引を承知しておきながら、かの燻精を変質させて送りかえすとは、片手落《かたてお》ちも甚《はなは》だしい。われに確乎《かっこ》たる決意あり。しっかり説明文をよこされよ”
すると、金博士が折りかえし返事して曰く、
“醤よ。身から出た錆《さび》という諺《ことわざ》を知らぬか。燻精を変質させて送りかえしたのは、お前がわしに、表のレッテルとはちがう変質インチキ酒《しゅ》を贈ってよこしたからだ。つまり変質に対する変質の応酬《おうしゅう》である。わしは、バーター・システムの約を忠実に果したつもりである。質的《クオリティヴ》のバーター・システムをね。あのインチキ・ウィスキーは悉く黄浦江《こうほこう》へ流してしまったよ。以後お前とは絶交《ぜっこう》じゃ”
と、博士は手紙の端《はし》に黒々と句読点《くとうてん》をうったのであった。
底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:まや
2005年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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