東京要塞
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)空《から》っ風
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)築地|夜話《やわ》であった。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ふのり[#「ふのり」に傍点]は使わず、
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非常警戒
凍りつくような空《から》っ風が、鋪道《ほどう》の上をひゅーんというような唸《うな》り声をあげて滑《すべ》ってゆく。もう夜はいたく更《ふ》けていた。遠くに中華そばやの流してゆく笛の音が聞える。
丁度《ちょうど》そのころ、築地《つきじ》本願寺裏から明石町《あかしちょう》にかけて、厳重な非常警戒網が布《し》かれた。
しかし制服の警官はたった二人だけ、あとはみな私服の刑事ばかりが十四、五人。寝鎮《ねしずま》った家の軒端《のきば》や、締め忘れた露次《ろじ》に身をひそめて、掘割ぞいの鋪道に注意力をあつめていた。
一体なにごとが始まるのだろうか。
「おい、来たぞ」
「来たか。通行人はどうだろう」
「あっ、向うの屋上から青灯《あおとう》をたてに振っている。幸《さいわ》い通行人は一人もないというのだ」
「うむ、うまくいったな」
警官たちの顔つきは、緊張そのものであった。
誰がやって来たというのだろうか。
本願寺裏の掘割ぞいの鋪道の方へ、ふらふらと千鳥足の酔漢《すいかん》がとびこんで来た。
「うーい、いい気持だ。な、なにもいうことはねえや。天下泰平とおいでなすったね」
取りとめもない独白《ひとりごと》のあとは、鼻にかかる何やら音頭の歌い放し。
すると、その後からまた一人の男が、同じこの横丁にとびこんできた。
前の千鳥足の酔漢は、小ざっぱりしたもじり外套《がいとう》を羽織《はお》った粋《いき》な風体《ふうてい》だが、後から出てきたのは、よれよれの半纏《はんてん》をひっかけた見窶《みすぼら》しい身なりをしている。
大道《だいどう》も狭いと云わんばかりに蹣跚《よろめ》いてゆく酔漢の背後に、半纏着の男はつつと迫っていった。
「あっ、な、なにをする――」
と酔漢が愕《おどろ》きの声をあげるところを、半纏着の男は酔漢の襟《えり》がみつかんで、ずでんどうと鋪道になげとばした。
「うぬ、――」
と起きあがろうとするのを、半纏男は背後から馬乗りになって、何やら棒のようなものでぽかぽかと滅多《めった》うち。
ぐたりと伸びるところを、半纏男は足をもってずるずると堀ばたに引張ってゆき、足蹴《あしげ》にしてどーんと堀の中になげこんだ。
どぼーんと大きな水音が、闇を破って響きわたった。
ずいぶん乱暴な行為であった。
しかし警官隊は、林のように鎮まりかえっている。彼等にはこの暴行者がまるで映らないようであった。
なんという腑《ふ》に落ちないこの場の光景であろうか。
暴行者の半纏着の男は、堀ばたに立って、じっと水面を見つめていた。五秒、十秒、二十秒……。
すると、彼は何思ったか、手にしていたアルミの弁当箱をがたんと音をさせて地上に投げだすが早いか、そのまま身を躍らせてどぼーんと堀のなかに飛びこんだ。
「おーい、しっかりしろ」
彼は片手に半死半生《はんしはんしょう》の酔漢を抱えあげた。そしてすっかり救命者になって、酔漢を助けながら、のそのそと堀から上ってきた。二人とも泥まみれの濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》であった。
「おーい、しっかりしろ。どうしたんだ。傷は浅いぞ。いまどこかの病院へつれてってやるからな」
と、しきりに介抱《かいほう》をするのであった。
堀の中に抛《ほう》りこんだり、それからまた自分も濡れ鼠になって堀のなかに飛びこんだり、実に御丁寧千万なことだった。
奇怪なのは警官隊の態度だった。映画撮影を見物しているわけでもあるまいし、この暴行を眼の前に見ながら、知らん顔をしているのであった。
折から一台の空円《あきえん》タクが、スピードをゆるめてこの横丁に入ってきた。
「おい、運転手さん、ちょっと手を貸してくれないか」
半纏着の男は手をあげて叫んだ。
「おう、どうしたどうした」
「いや、酔払《よっぱら》いが、この堀の中に落っこって、もうすこしで土左衛門《どざえもん》になるところだったよ。だいぶ傷をしているらしいから、その辺の病院まで搬《はこ》んでくれないか」
「うん、よしきた」
円タクは、濡れ鼠の二人を吸いこむと、そのまま明石町の方へ走り去った。
すると、軒端に隠れていた警官隊がぞろぞろと出て来た。
「やあ、どうも御苦労さま。署へかえって、熱いものでも一杯喰べようじゃないか」
「じっとしていたんで、風を引いてしまったよ。はっくしょい」
警官隊は、ぞろぞろと引上げていった。どこまでも奇妙な築地|夜話《やわ》であった。
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