秘密工事


「わしんとこの吉が御厄介《ごやっかい》になっとりますそうで、――」
 と、シンプソン病院の受付に、真青《まっさお》になってとびこんで来た五十がらみの請負師《うけおいし》らしい男があった。
「誰方《どなた》でございますか」
 と、肉づきのいい看護婦が、憎いほど落ちつき払って聞いた。
「えっ」と五十男は気をのまれた形であったが、「わしは土木工事の請負をやっている熊谷五郎造《くまがいごろぞう》です。うちの若い者の吉――というと本名は原口吉治《はらぐちきちじ》てえんですが、どこかで怪我をして、誰方やらに助けてもらって、こっちに御厄介になっていると聞きましたが……」
 すると看護婦は、軽くうなずいて、
「どうぞお上り下さいまし」
 といった。
 原口吉治は、ベッドの上にうんうん唸《うな》っていた。
 親方の声を聞くと、さすがにちょっと唸り声をやめたが、しばらくすると、またたまらなくなって前よりひどく唸りだした。
「どうしたんだ、吉。だからあれくらい云っといたじゃねえか。酒を呑みあるいちゃいけない。もし呑むんだったら、わしの家で呑め、それなら間違いもなくて済《す》むからと、あれほど云って置いたのに、これじゃしようがないじゃないか」
 と見舞いに来たのか、叱《しか》りに来たのか分らない親方五郎造だった。
「親方、当人は相当ひどい怪我をしているんですよ。それに私が通りかからなきゃ、命を落とすところだったんです。あまりガミガミ云っちゃ可哀《かわい》そうですよ」
 と、隅に腰を下ろしていた髭蓬々《ひげぼうぼう》の男がいった。彼は病院で借りたのらしい白いネルの病衣《びょうい》を二枚重ねて着ていた。
「おお、お前さんでしたね、わしのところへ知らせて下すったのは。そして吉も助けてもらって、どうも今度は、たいへん御厄介になって済みませんです」
「いや、なんでもありゃしません」
「いずれ後から、御礼はいたします」
「その御心配には及びませんよ」
 そういったこの男の言葉は、偽《いつわ》りがなかった。自分で抛《な》げこんで置いて、自分で助けたんだから、礼をされる筋合《すじあい》はない筈だった。
 五郎造は、病人の枕許でひどく弱ったらしい顔をしていた。それは病人の容態《ようだい》に対する心配だけではないように思われた。
「……ちょっ、仕様《しよう》がねえやつだ。これじゃ云訳《いいわけ》が立たないや。明日の朝は――これはえれえことになったぞ」
 五郎造はぶつぶつ独白《ひとりごと》をいっては、腹を立てていた。吉治の怪我で、彼はなにか大変困ったことに直面しているらしい様子だった。
 生命救助者を装う髭蓬々の男は、濡れていた半纏が乾いたというので、これに着かえながら、そろそろ暇乞《いとまご》いをする気色《けはい》に見えた。
「おう、もうお帰りですかい。そうだ、お前さんの名刺を一枚下さいな。お礼にゆかなきゃなりませんからね」
 すると半纏男は笑いながら、
「お礼には及びませんよ。それに、私は名刺なんか持っていないんです。月島《つきしま》二丁目に住んでいる正木正太《まさきしょうた》という左官なんです」
「ええっ、左官。するとお前さんは、近頃のコンクリート工事なんかやったことがあるのかね」
「ええ、すこしは覚えがあるんですが、大した腕でもありませんよ。なにしろ仕事がなくて、毎日、あっちこっちをうろついているのですからね」
「ふふーン、そうかい。そういうことなら、正太さんとやら、わしは一つお前さんに相談があるんだがね。いや、もちろんうちの者を助けてくれたお礼心から、ちとばかりお前さんに儲《もう》けさせようというんだ。実はね、ま、こっちへ来なさい」
 と五郎造は正木正太を病院の廊下へ連れだした。深夜のこととて他に面会人も歩いていず、そのあたりは湖水の底のようにしーんと鎮《しず》まりかえっていた。
「こいつは他言《たごん》して貰《もら》っちゃ困る。お前さんだから、信用してうちあけるんだが――」
 と前提して、五郎造親方は、いまやりかかっている或る秘密の土木工事があって、そこへ働きにゆく気はないか、なにしろ人員は厳選してある上に、一人足りなくても先方から喧《やかま》しくいわれるのだ。今夜吉治が怪我をしてしまったため、明朝は左官が一人足りなくなる。そのために先方からどんな苦情をうけるかと思うと、彼は気が気でないのだと包み隠さずにいって、この寒中《かんちゅう》に額《ひたい》にびっしょりとかいた汗を手巾《ハンカチ》で拭《ぬぐ》った。
「幸いお前さんが、左官をやれるというから、これはもっけのことだ。これも因縁《いんねん》だと思うから、一つやって見ては」
「でも、なんだか気味がわるいですね。秘密の工事なんて」
「いや、そう思うだけのことで、やっていることは普通の工事なん
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