偵大辻又右衛門先生が出馬せられるより外に途がないわけじゃないか。つまりわし[#「わし」に傍点]が頼まれたことになるのじゃ。オホン」
 大辻老はそこで大将のように反身《そりみ》になったが、テーブルの上の麦湯の壜をみると、忽《たちま》ちだらしのない顔になり、ひきよせるなり、馬のような腹に波をうたせて、ガブガブと一滴のこらず呑んでしまった。
「ああ、うまい。ここの井戸は深いせいか、実によく冷えるなア」
 三吉にはそれも耳に入らぬらしく、折悪しく帆村名探偵の海外出張中なのを慨《なげ》いていた。


   怪盗「岩」


「岩が帰ってくるそうじゃ」
 そういったのは警視総監の千葉八雲《ちばやぐも》閣下《かっか》だった。
「なに、岩が、でございますか」
 とバネじかけのように椅子から飛び上ったのは大江山《おおえやま》捜査課長だった。それほど驚いたのも無理ではなかった。岩というのは、不死身《ふじみ》といわれる恐《おそろ》しい強盗紳士だ。彼は下町の大きい機械工場に働いていた技師だが、いつからともなく強盗を稼《かせ》ぐようになっていた。頭がいいので、やることにソツがなく、ことに得意な機械の知識を悪用して、身の毛もよだつ新しい犯罪を重ねていた。三年前に脱獄して行方不明になったまま、ひょっとすると死んだのだろうと噂されていた岩だったが……。
「ここに密告状が来ている」
 総監は桐函《きりばこ》の蓋をとって捜査課長の前に押しやった。その中には一通の角封筒と、その中から引出したらしい用箋《ようせん》とが入っていた。
「うーむ」と課長は函を覗《のぞ》きこんで呻《うな》った。「イワハ十三ニチフネデトウキョウニカエッテクルゾ。――おお、差出人の名が書いてない。十三日! あッ、今日だッ」


   非常警備につけ!


 十三日というと、帆村探偵事務所へ、芝浦沖に沈んだ地底機関車が行方不明になった事件を頼みに来た丁度《ちょうど》その日に当っていた。警視庁では「岩帰る」という密告状が舞いこんで、俄かに煮え返るような騒ぎになった。強盗紳士の手際に懲《こ》りているので、忽《たちま》ち厳重な警戒の網が展《ひろ》げられた。
 本庁の無線装置は気が変になったように電波を出した。東京と横浜との水上署の警官と刑事とは、直ちに非常招集されて港湾の警戒にあたった。陸上は陸上で、これ又、各署総動員の警戒だった。空には警備飛行機が飛び交い、水中には水上署が秘蔵している潜航艇が出動した。空、陸、海上、海底の四段構えで、それこそ針でついたほどの隙もなく二重三重に守られた。
 大江山捜査課長は部下を率いて、横浜埠頭《よこはまふとう》へ出張した。
「フネデトウキョウヘカエッテクルゾ……東京へ帰るというからには、芝浦へ着くのか、それとも横浜に着いて東京へ入るのか」
 課長は大いに迷った。しかし愚図愚図《ぐずぐず》することは許されない。係員を半分にわけ、一隊は芝浦港へ、一隊は横浜港へ。そして課長自身は信ずるところあって横浜へ――。
 さて今や、当日たった一|艘《そう》入港《にゅうこう》する外国帰りの汽船コレヤ丸が港外に巨影を現した。


   コレヤ丸入港


 米国《べいこく》がえりのコレヤ丸は、疲れ切った船体を、港内の四|号《ごう》錨地《びょうち》へ停めた。
 停まるを遅しと一艘のモーターボートが横づけになった。ドヤドヤと梯子《はしご》を上る一行の先頭に、大江山捜査課長の姿があった。
「やあ御苦労さまです」と船長が迎えた。
「無線で命令したことは御承知でしょうな」と捜査課長は鋭くいった。
「はい。船客は一人も降りていません」
 その言葉を課長は聞咎《ききとが》めた。
「船客だけじゃない、船員もですよ」
「それは勿論ですとも。しかし先刻《せんこく》機関長をお連れになりましたね」
「なに、先刻とはいつです」サッと課長の顔は青ざめた。
「先刻港外へ水上署の汽艇をおよこしになったじゃありませんか。そして取調べがあるからといって機関長だけを……」
「ばッばかなッ」皆まで聞かず大江山課長は怒鳴《どな》った。「その機関長の室へ、直ぐ案内するのだ」
 矢のように機関長室へ駈けこんだ課長は、三分と経たない間に、又矢のように甲板へ飛び出して来た。
「彼奴《あいつ》の指紋ばかりだ。機関長に化けていたのが岩だッ」
 そのとき、一人の船員が叫んだ。「あれッ、あすこへ先刻《さっき》の汽艇《きてい》が行きますよ」


   消えた機関長


「どこだ、どこだ」
 大江山課長は双眼鏡を借りて指さされた遥《はる》か彼方《かなた》の海上を見た。なるほど水上署の旗を翻《ひるがえ》した一艘の汽艇が矢のように沖合を逃げてゆく。
「あッ!」課長は舷《ふなばた》から乗り出さんばかりにして叫んだ。「いるぞ。機関長の姿をした奴が見える。よし
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