十三度半の傾斜《けいしゃ》をもち、太陽に対して一年を周期とする大きなかぶりを振っている。だから、温帯では春夏秋冬がいい割合に訪れて生物を和《やわら》げてくれるが、赤道附近では一年中が夏であり、極地附近は一年中が氷雪《ひょうせつ》に閉《と》じこめられている。シベリア一帯などもかなり極地的であって、寒帯と呼ばれる地域が大部分を占めている。さてこそ、やむなくそこへ逃げこんで一命《いちめい》をもちこたえたのはいいが、後になってくしゃみの連発に気をくさらす者も出来てくる始末であった。これを思えば、なるほど“シベリアから雪と氷とを永遠に追放せよ”との叫びも、彼らの衷心《ちゅうしん》からほとばしり出《い》でた言葉であることが肯《うなず》かれもし、そして又、そのように途方《とほう》もない夢を画《えが》くことによって僅かに自分を慰めなければならぬほど、窮乏《きゅうぼう》のどん底へ陥ってしまったのだとも云える。
しかし、それは普通人の見方というものであって、金博士に限っては(そうだ、なぜそれを早くやらないのか)といいたげである。
地軸を廻せば、雪と氷とを追放することなんか訳なしだ、と博士は思っている。たとえば仮《か》りに北極をワシントンへ持っていったとしたらどうであろうか。シベリアの氷雪はたちまち融《と》け去り、さぞ御迷惑《ごめいわく》なこととは思うが、北米合衆国全土は美しき雪原《せつげん》と氷山とに化してしまい、凍結元祖屋《とうけつがんそや》さんだけに有終《ゆうしゅう》の美《び》をなしたと、枢軸国側《すうじくこくがわ》から拍手喝采《はくしゅかっさい》を送られることになろうもしれぬのである。しかし、そのときには寒帯の方の国は、アメリカとは大反対に、躍りあがってよろこぶことであろう。
かようにして、金博士が地軸を廻せば、新北極や新南極に当った土地の住民は、ぶうぶう云うか、感冒《かんぼう》に罹《かか》って死ぬるのが落ちであろうが、寒帯から一躍温帯に変ったかのエスキモー人など、どのように瞳を輝かして、あのあざらしの服を脱ぎ、俄《にわか》に咲き乱れる百花に酔うであろうか。
いや、アメリカのことや、エスキモーのことなどはどうでもよろしい。肝腎《かんじん》のシベリアの話を書き綴《つづ》らねばなるまい。
4
さてもさてもここはシベリアの新モスクバである。
ネルスキー特使が泣き言をならべていったように、今この土地は吹雪《ふぶき》と厳氷《げんぴょう》とに閉じこめられている。
新クレムリン宮殿は、突兀《とつこつ》たる氷山の如く擬装《ぎそう》されてあった。中ではペチカがしきりに燃えていて、どの室《へや》も、頭の痛くなるほど饐《す》えくさかった。宰相公室《さいしょうこうしつ》においては、例のネルスキー特使が、いかにも宰相らしく装《よそお》って、大きな椅子に腰をかけていた。
そこへ運送相《うんそうしょう》クレメンスキーが呼ばれた。
「やれクレメンスキーか、待ち兼ねたぞ」と、ネルスキーは宰相そっくりの声で、「で、早速《さっそく》たずねるが、あの一件はどうした。たしかに先方へ届いたか」
「宰相閣下、あの一件と申しますと……」
「あの一件を忘れているようじゃ困る。ほら、あれじゃ、燻製《くんせい》のあれを、ほら中国の金博士に届けろといったあれだ。まだ届けてないんだな、こいつ奴《め》」
「いやいやいや、とんでもない。金博士のところへお届けする燻製十箱は、もう三日も前に向うへ着いています。そのことは、書類でもって御報告して置きました筈《はず》ですが」
「なんだ三日前に届いたのか。書類というはよく途中で紛失するものだ。そういう重大なることは、口答《こうとう》でするように」
「申訳ありません。では失礼を」
クレメンスキーが、こそこそと去ると、ネルスキーはにたりと笑って、額の汗をふいた。
「燻製十箱で、シベリアが常夏《とこなつ》の国になれば、電信柱も愕《おどろ》いて花を咲かせるだろう。とにかくこれが実現されれば、やすい取引のレコードを作るというものじゃ――しかし金博士は、交換条件のあれを何日頃《いつごろ》から始めてくれるのだろうか」
と、ネルスキーは、金博士が一日も早く、シベリアの雪と氷とを追っ払ってくれることを祈るのだった。彼はまた額の汗をふいた。
「いやだなあ。今年は石炭が高いから節約して使えといっておいたのに、今日は又やけに燃《も》やし居るぞ。察するところ、ペチカ委員め、気でも変になったと見える。一つ、呶鳴《どな》りつけてやろう」
ネルスキーは、電話機をもって、ペチカ委員を呼び出した。
「おおペチカ委員部か。おいおい気でも変になったか、この石炭の高いというのに、こんなに燃して、一体国家経済をどうするつもりだ。わしかい。わしはネル、いや宰相じゃ」
ネルスキーは、宰相になりすまして、太い口髭をひっぱった。
「ああ宰相閣下。それはとんでもない御思い違いであります。私は石炭を無駄使いして居りませぬ。いや本当です。只今ペチカには一塊《いっかい》の石炭も燃えては居りませぬ。嘘だとお思いなら、こちらへ来て御覧下さるように……」
「なにを、うまいことを云って、わしをごま化そうとしても、なかなかごま化されないぞ。たとい宰相閣下を――いや、わしは宰相閣下だが、ごま化されるものか。ペチカに一塊の石炭も入っていないで、こんなにぽかぽかするものかい。わしの額からは、ぽたぽたと汗の玉が垂《た》れてくるわ」
「ああ宰相閣下。そうお思いになるのは無理ではありません。今日は外気の気温の方が室内よりも高いのでありますぞ。窓をお開きになってみて下さい。途方もないいい陽気です」
「外はいい陽気?」
ネルスキーは、このとき初めて、或ることに気がついた。夙《と》くに気がつくべかりしことを、今になってやっと気がついたのであった。彼は思わず指の腹をこすって、ぱちんという音をたて、
「あっ、そうか。いや、早いものじゃ。燻製の効果が、こうも早く出てくるとは思わなかった。いや偉大なものじゃ、豪《えら》いものじゃ」
「これはこれは過分なる御褒《おほ》めの言葉で恐れ入ります。本員といたしましては……」
「莫迦《ばか》、今のはお前を褒めたのではない。はきちがえるな」
「はあ。それは御卑怯《ごひきょう》というものです。私と電話でお話になっていて、御褒めになったのですから、これはどうしても私の取得《しゅとく》です。そうではありませんか、宰相閣下」
その返事の代りに電話機の掛けられたがちゃりという音が、ペチカ委員の耳に入ったばかりであった。彼は大きな白熊を取り逃がしたように思ったが、しかしもう少しネルスキーの気のつき方が遅ければ、既にゲペウの手に懸《かか》って始末されていたかもしれないのであった。
5
ネルスキーは、廊下を飛ぶように駈けて、早速《さっそく》宰相室へいった。それは、今シベリアに不定期の春が来たことを告げて、香港《ホンコン》会談における彼の功績を宰相に認識せしめんがためであった。
彼が宰相室の前までいったとき、その入口で、沢山の宮廷委員がモートルを担《かつ》いだり、蛇管《だかん》を持ったり、電纜《でんらん》を曳《ひ》きずったりして、ごったがえしをしている有様を見て愕いた。
「ど、どうしたのかね、この体《てい》たらくは……」
ネルスキーは、そのうちの一人の腕をとらえて質問を浴《あび》せかけた。
「さあ、私は訳をよくは存知ませんがね、とにかく冷房装置をここ一時間のうちに取りつけろという御命令です」
「冷房装置を? ふふん、それは宰相閣下の御命令なのか」
「いや、私の受けたのは、気象委員部からです。これはここだけの話ですが、宰相閣下は暑さ負けがせられて、心臓に氷をあてておやすみ中だとの噂がありますよ」
「それはデマだろう。宰相閣下はあのとおり丈夫な方で……いや、しかしこのような温気《おんき》には初めて遭《あ》われて、おまごつきかもしれない。おい、貴公は寒暖計を持っているか」
「私は持って居りませんが、この壁にかかっています。これは自記寒暖計《じきかんだんけい》ですよ。ほう、只今|摂氏《せっし》の二十七度です。暑いのも道理ですなあ」
「ほう、二十七度か。うん、シベリアがウクライナ以上の豊庫《ほうこ》になる日が来たぞ」
「これをごらんなさい。全くふしぎなことがあるのですよ。今からたった十分前が摂氏二十度です。気温は急速に騰《のぼ》りつつあります。おや、また騰りましたよ。いま正に摂氏の三十度。私はもう蒸し殺されそうです。失礼ですが上衣《うわぎ》を脱がせて頂かねば、生命《いのち》が保《も》ちません」
「なるほど、これは暑くて苦しい。わしも上衣を脱ごう。ついでにズボンも外《はず》そう」
「ふう、暑い暑い。これは一体どういうわけですかな。急に気温は騰るわ、雪は融けるわ、その水蒸気のせいで湿度百パーセント、なんという蒸し暑さでしょう」
「なるほどなるほど、宰相閣下が氷の塊を心臓の上におのせになるのも無理ではない」
といっているとき、部屋の中からは、一人の役人が、頭から湯気《ゆげ》を立てて、まるで茹《う》で蛸《だこ》のような真赤な顔で飛び出してきた。
「おい、氷はないか。さっきまで全国どこでも有りあまった氷が、今はどこへ電話をかけても無いそうじゃ。懸賞金を出すから、誰でも外へいって氷を持ってこい。宰相閣下の心臓が心配だ」
といっているところへ、これは廊下をばたばたと駈けて来た裸の役人がいた。
「たいへんたいへん、大洪水《だいこうずい》だ。何しろ氷山も雪原《せつげん》も一度に融けだしたんだから、町という町、防空壕《ぼうくうごう》という防空壕は水浸《みずびた》しになり、水かさはどんどん殖《ふ》えていく。この新クレムリン宮《きゅう》も、あと三時間以内には水中に没するぞ。宰相閣下に、そう取次いでください」
たいへんな騒ぎが、それからそれへと発展していった。宰相は、新クレムリン宮を後《あと》にするに際して、委員の一人をしてネルスキーに叱責《しっせき》の言葉を伝達せしめられた。
“余《よ》は汝《なんじ》の行き過ぎを遺憾《いかん》に思うものである。シベリアを熱帯にせよとは、申しつけなかったつもりである。早々《そうそう》香港《ホンコン》に赴《おもむ》きて、金博士に談判《だんぱん》し、シベリアを常春《とこはる》の国まで引きかえさせるべし。その代償《だいしょう》として、あと燻製の五十箱や六十箱は支出して苦しからず”
宰相の言葉をうけて、ネルスキーは不思議に銃殺の刑から免《まぬ》かれたことを悦《よろこ》びつつ、直ちに香港に赴《おもむ》いた。
金博士は、最早《もはや》香港にはいなかった。
博士はどこへいったのであろうか。助手に訊《き》くと、博士はアルプス山中に行かれたとのことであった。そこで、この助手君《じょしゅくん》を拝《おが》み倒《たお》して、アルプス山中へ飛行機で案内して貰った。
博士は、白い天幕《テント》を張って、悠々と作業をつづけていた。
百トン戦車かと思うような巨大な鋼鉄《こうてつ》の怪車輌《かいしゃりょう》が数百台、博士の握るハンドル一つによって、電波操縦でギリギリと前進する。その怪車輌が崖《がけ》にぶつかると、爆音をあげて崖はたちまち消え失《う》せる。その代り一本の茶褐色《ちゃかっしょく》の煙がすーっと立ちのぼり、轟々《ごうごう》たる音をたてて天空《てんくう》はるかに舞いあがっていく。その有様は、竜巻《たつまき》の如くであった。
これは人工竜巻とも名付くべきものである。博士は、この人工竜巻を何のために起しているか。それをいう前に、この人工竜巻がどんなものであるかということを説明する方が、順序であろう。
人工竜巻は、アルプス山を削《けず》りとった岩石が天空高く舞い上っていく姿である。山を削るには、かの怪車輌がある。この怪車輌は、能率三千パーセントと称せられた原子変換《げんしへんかん》エネルギーを利用した起重動力発生機《きじゅうどうりょくはっせいき》であって、さて
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