いです」
「いや、ルーブル紙幣の名を聞いただけで、寒気《さむけ》がしてぶるぶると慄《ふる》えが出る。そんなものを紙幣で頂《いただ》こうなど毛頭《もうとう》思っとらん」
「では何を……。あ、そうそう、カムチャッカでやっとります燻製《くんせい》の鰊《にしん》に燻製の鮭《さけ》は、いかがさまで……」
「それだ。初めから、そういう匂いがしていた。燻製の本場ものはさぞうまいことじゃろう。そっちから申込みの仕事は、その燻製が届いてから始めるから、仕事を早く始めて貰いたかったら、一日も早く現品《げんぴん》をわしのところへ届けなさい。では失礼」
というと、金博士の姿は忽然《こつねん》としてその場から消えた。日本人に見せたら、これはきっと金博士が忍術を使ったと思うだろうが、実はさにあらず、例の偏光硝子《へんこうガラス》で作った衝立《ついたて》の中に、博士が入ったためで、博士の方からはネルスキーの方が見えるが、ネルスキーの方からは博士が絶対に見えないのであった。
3
シベリアから雪と氷とを永遠に追放して呉れさえすれば、今次戦《こんじせん》に惨敗《ざんぱい》をくらった政権が猛然と立ち直り得るというのであった。
金博士は、大自然力《だいしぜんりょく》を向うへ廻してのこの極めて困難なる大事業をわずかの燻製の魚類《ぎょるい》を代償に簡単に引受けてしまったのであった。
博士は一体成算があるのであろうか。
いや、これまでの博士のひととなりを知っているわれらは、今度も博士が十分やりとげる自信があって引受けたものと信ずる。それにしても報酬があまりに粗末すぎるようでもあるが、元来《がんらい》博士は黄金の価値について無頓著《むとんちゃく》で、只《ただ》マージナル・ユーティリテーの大なるものこそ欲《ほ》しけれ、という極めて淡白なる性格の人だった。それはそれとして博士は今いかなる計画を胸に描いているのであろうか。
髭の宰相の狙う最後の機会なるものは、シベリアから雪と氷を永遠に追払うことに繋《つな》がれてある。
いかなる学者が聞いても、とたんに気絶するであろうと思われるこの難事を博士はとたんに胸のうちに解決をつけていたのだ。
「地軸《ちじく》を廻せば、そんなことは自由自在に出来るじゃないか」
地軸を廻すとは?
地球は地軸を中心として、反時計式に回転している。
その地軸は、二十三度半の傾斜《けいしゃ》をもち、太陽に対して一年を周期とする大きなかぶりを振っている。だから、温帯では春夏秋冬がいい割合に訪れて生物を和《やわら》げてくれるが、赤道附近では一年中が夏であり、極地附近は一年中が氷雪《ひょうせつ》に閉《と》じこめられている。シベリア一帯などもかなり極地的であって、寒帯と呼ばれる地域が大部分を占めている。さてこそ、やむなくそこへ逃げこんで一命《いちめい》をもちこたえたのはいいが、後になってくしゃみの連発に気をくさらす者も出来てくる始末であった。これを思えば、なるほど“シベリアから雪と氷とを永遠に追放せよ”との叫びも、彼らの衷心《ちゅうしん》からほとばしり出《い》でた言葉であることが肯《うなず》かれもし、そして又、そのように途方《とほう》もない夢を画《えが》くことによって僅かに自分を慰めなければならぬほど、窮乏《きゅうぼう》のどん底へ陥ってしまったのだとも云える。
しかし、それは普通人の見方というものであって、金博士に限っては(そうだ、なぜそれを早くやらないのか)といいたげである。
地軸を廻せば、雪と氷とを追放することなんか訳なしだ、と博士は思っている。たとえば仮《か》りに北極をワシントンへ持っていったとしたらどうであろうか。シベリアの氷雪はたちまち融《と》け去り、さぞ御迷惑《ごめいわく》なこととは思うが、北米合衆国全土は美しき雪原《せつげん》と氷山とに化してしまい、凍結元祖屋《とうけつがんそや》さんだけに有終《ゆうしゅう》の美《び》をなしたと、枢軸国側《すうじくこくがわ》から拍手喝采《はくしゅかっさい》を送られることになろうもしれぬのである。しかし、そのときには寒帯の方の国は、アメリカとは大反対に、躍りあがってよろこぶことであろう。
かようにして、金博士が地軸を廻せば、新北極や新南極に当った土地の住民は、ぶうぶう云うか、感冒《かんぼう》に罹《かか》って死ぬるのが落ちであろうが、寒帯から一躍温帯に変ったかのエスキモー人など、どのように瞳を輝かして、あのあざらしの服を脱ぎ、俄《にわか》に咲き乱れる百花に酔うであろうか。
いや、アメリカのことや、エスキモーのことなどはどうでもよろしい。肝腎《かんじん》のシベリアの話を書き綴《つづ》らねばなるまい。
4
さてもさてもここはシベリアの新モスクバである。
ネルスキー特使
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