が泣き言をならべていったように、今この土地は吹雪《ふぶき》と厳氷《げんぴょう》とに閉じこめられている。
 新クレムリン宮殿は、突兀《とつこつ》たる氷山の如く擬装《ぎそう》されてあった。中ではペチカがしきりに燃えていて、どの室《へや》も、頭の痛くなるほど饐《す》えくさかった。宰相公室《さいしょうこうしつ》においては、例のネルスキー特使が、いかにも宰相らしく装《よそお》って、大きな椅子に腰をかけていた。
 そこへ運送相《うんそうしょう》クレメンスキーが呼ばれた。
「やれクレメンスキーか、待ち兼ねたぞ」と、ネルスキーは宰相そっくりの声で、「で、早速《さっそく》たずねるが、あの一件はどうした。たしかに先方へ届いたか」
「宰相閣下、あの一件と申しますと……」
「あの一件を忘れているようじゃ困る。ほら、あれじゃ、燻製《くんせい》のあれを、ほら中国の金博士に届けろといったあれだ。まだ届けてないんだな、こいつ奴《め》」
「いやいやいや、とんでもない。金博士のところへお届けする燻製十箱は、もう三日も前に向うへ着いています。そのことは、書類でもって御報告して置きました筈《はず》ですが」
「なんだ三日前に届いたのか。書類というはよく途中で紛失するものだ。そういう重大なることは、口答《こうとう》でするように」
「申訳ありません。では失礼を」
 クレメンスキーが、こそこそと去ると、ネルスキーはにたりと笑って、額の汗をふいた。
「燻製十箱で、シベリアが常夏《とこなつ》の国になれば、電信柱も愕《おどろ》いて花を咲かせるだろう。とにかくこれが実現されれば、やすい取引のレコードを作るというものじゃ――しかし金博士は、交換条件のあれを何日頃《いつごろ》から始めてくれるのだろうか」
 と、ネルスキーは、金博士が一日も早く、シベリアの雪と氷とを追っ払ってくれることを祈るのだった。彼はまた額の汗をふいた。
「いやだなあ。今年は石炭が高いから節約して使えといっておいたのに、今日は又やけに燃《も》やし居るぞ。察するところ、ペチカ委員め、気でも変になったと見える。一つ、呶鳴《どな》りつけてやろう」
 ネルスキーは、電話機をもって、ペチカ委員を呼び出した。
「おおペチカ委員部か。おいおい気でも変になったか、この石炭の高いというのに、こんなに燃して、一体国家経済をどうするつもりだ。わしかい。わしはネル、いや宰相じゃ」
 ネルスキーは、宰相になりすまして、太い口髭をひっぱった。
「ああ宰相閣下。それはとんでもない御思い違いであります。私は石炭を無駄使いして居りませぬ。いや本当です。只今ペチカには一塊《いっかい》の石炭も燃えては居りませぬ。嘘だとお思いなら、こちらへ来て御覧下さるように……」
「なにを、うまいことを云って、わしをごま化そうとしても、なかなかごま化されないぞ。たとい宰相閣下を――いや、わしは宰相閣下だが、ごま化されるものか。ペチカに一塊の石炭も入っていないで、こんなにぽかぽかするものかい。わしの額からは、ぽたぽたと汗の玉が垂《た》れてくるわ」
「ああ宰相閣下。そうお思いになるのは無理ではありません。今日は外気の気温の方が室内よりも高いのでありますぞ。窓をお開きになってみて下さい。途方もないいい陽気です」
「外はいい陽気?」
 ネルスキーは、このとき初めて、或ることに気がついた。夙《と》くに気がつくべかりしことを、今になってやっと気がついたのであった。彼は思わず指の腹をこすって、ぱちんという音をたて、
「あっ、そうか。いや、早いものじゃ。燻製の効果が、こうも早く出てくるとは思わなかった。いや偉大なものじゃ、豪《えら》いものじゃ」
「これはこれは過分なる御褒《おほ》めの言葉で恐れ入ります。本員といたしましては……」
「莫迦《ばか》、今のはお前を褒めたのではない。はきちがえるな」
「はあ。それは御卑怯《ごひきょう》というものです。私と電話でお話になっていて、御褒めになったのですから、これはどうしても私の取得《しゅとく》です。そうではありませんか、宰相閣下」
 その返事の代りに電話機の掛けられたがちゃりという音が、ペチカ委員の耳に入ったばかりであった。彼は大きな白熊を取り逃がしたように思ったが、しかしもう少しネルスキーの気のつき方が遅ければ、既にゲペウの手に懸《かか》って始末されていたかもしれないのであった。


     5


 ネルスキーは、廊下を飛ぶように駈けて、早速《さっそく》宰相室へいった。それは、今シベリアに不定期の春が来たことを告げて、香港《ホンコン》会談における彼の功績を宰相に認識せしめんがためであった。
 彼が宰相室の前までいったとき、その入口で、沢山の宮廷委員がモートルを担《かつ》いだり、蛇管《だかん》を持ったり、電纜《でんらん》を曳《ひ》きずったりして
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