、ごったがえしをしている有様を見て愕いた。
「ど、どうしたのかね、この体《てい》たらくは……」
 ネルスキーは、そのうちの一人の腕をとらえて質問を浴《あび》せかけた。
「さあ、私は訳をよくは存知ませんがね、とにかく冷房装置をここ一時間のうちに取りつけろという御命令です」
「冷房装置を? ふふん、それは宰相閣下の御命令なのか」
「いや、私の受けたのは、気象委員部からです。これはここだけの話ですが、宰相閣下は暑さ負けがせられて、心臓に氷をあてておやすみ中だとの噂がありますよ」
「それはデマだろう。宰相閣下はあのとおり丈夫な方で……いや、しかしこのような温気《おんき》には初めて遭《あ》われて、おまごつきかもしれない。おい、貴公は寒暖計を持っているか」
「私は持って居りませんが、この壁にかかっています。これは自記寒暖計《じきかんだんけい》ですよ。ほう、只今|摂氏《せっし》の二十七度です。暑いのも道理ですなあ」
「ほう、二十七度か。うん、シベリアがウクライナ以上の豊庫《ほうこ》になる日が来たぞ」
「これをごらんなさい。全くふしぎなことがあるのですよ。今からたった十分前が摂氏二十度です。気温は急速に騰《のぼ》りつつあります。おや、また騰りましたよ。いま正に摂氏の三十度。私はもう蒸し殺されそうです。失礼ですが上衣《うわぎ》を脱がせて頂かねば、生命《いのち》が保《も》ちません」
「なるほど、これは暑くて苦しい。わしも上衣を脱ごう。ついでにズボンも外《はず》そう」
「ふう、暑い暑い。これは一体どういうわけですかな。急に気温は騰るわ、雪は融けるわ、その水蒸気のせいで湿度百パーセント、なんという蒸し暑さでしょう」
「なるほどなるほど、宰相閣下が氷の塊を心臓の上におのせになるのも無理ではない」
 といっているとき、部屋の中からは、一人の役人が、頭から湯気《ゆげ》を立てて、まるで茹《う》で蛸《だこ》のような真赤な顔で飛び出してきた。
「おい、氷はないか。さっきまで全国どこでも有りあまった氷が、今はどこへ電話をかけても無いそうじゃ。懸賞金を出すから、誰でも外へいって氷を持ってこい。宰相閣下の心臓が心配だ」
 といっているところへ、これは廊下をばたばたと駈けて来た裸の役人がいた。
「たいへんたいへん、大洪水《だいこうずい》だ。何しろ氷山も雪原《せつげん》も一度に融けだしたんだから、町という町、防空壕《ぼうくうごう》という防空壕は水浸《みずびた》しになり、水かさはどんどん殖《ふ》えていく。この新クレムリン宮《きゅう》も、あと三時間以内には水中に没するぞ。宰相閣下に、そう取次いでください」
 たいへんな騒ぎが、それからそれへと発展していった。宰相は、新クレムリン宮を後《あと》にするに際して、委員の一人をしてネルスキーに叱責《しっせき》の言葉を伝達せしめられた。
“余《よ》は汝《なんじ》の行き過ぎを遺憾《いかん》に思うものである。シベリアを熱帯にせよとは、申しつけなかったつもりである。早々《そうそう》香港《ホンコン》に赴《おもむ》きて、金博士に談判《だんぱん》し、シベリアを常春《とこはる》の国まで引きかえさせるべし。その代償《だいしょう》として、あと燻製の五十箱や六十箱は支出して苦しからず”
 宰相の言葉をうけて、ネルスキーは不思議に銃殺の刑から免《まぬ》かれたことを悦《よろこ》びつつ、直ちに香港に赴《おもむ》いた。
 金博士は、最早《もはや》香港にはいなかった。
 博士はどこへいったのであろうか。助手に訊《き》くと、博士はアルプス山中に行かれたとのことであった。そこで、この助手君《じょしゅくん》を拝《おが》み倒《たお》して、アルプス山中へ飛行機で案内して貰った。
 博士は、白い天幕《テント》を張って、悠々と作業をつづけていた。
 百トン戦車かと思うような巨大な鋼鉄《こうてつ》の怪車輌《かいしゃりょう》が数百台、博士の握るハンドル一つによって、電波操縦でギリギリと前進する。その怪車輌が崖《がけ》にぶつかると、爆音をあげて崖はたちまち消え失《う》せる。その代り一本の茶褐色《ちゃかっしょく》の煙がすーっと立ちのぼり、轟々《ごうごう》たる音をたてて天空《てんくう》はるかに舞いあがっていく。その有様は、竜巻《たつまき》の如くであった。
 これは人工竜巻とも名付くべきものである。博士は、この人工竜巻を何のために起しているか。それをいう前に、この人工竜巻がどんなものであるかということを説明する方が、順序であろう。
 人工竜巻は、アルプス山を削《けず》りとった岩石が天空高く舞い上っていく姿である。山を削るには、かの怪車輌がある。この怪車輌は、能率三千パーセントと称せられた原子変換《げんしへんかん》エネルギーを利用した起重動力発生機《きじゅうどうりょくはっせいき》であって、さて
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