なんどき面倒《めんどう》なことが発生するやも知れず、かくてはわたくしが傍杖《そばづえ》をくうおそれがあるので迷惑だから、道中《どうちゅう》だけを特に変装して貰うことにした。それで特使は、あの髭《ひげ》を反対の方向へカイゼル髭にぴーんとひねり上げたものである。
2
「金博士よ、ぜひとも聴き入れてください。そうでないと、折角《せっかく》わしが特使に立った甲斐《かい》がないというものだ」
金博士は、後向きに椅子に腰をかけて、西瓜《すいか》の種をポリポリ齧《かじ》っている。さっきから何ひとつろくに返事をしない。
「ねえねえ金博士。博士は、わしが好んで特使に立ち、好んで味噌《みそ》をつけるのだといわれるでしょうが、わしは自分の名声のために特使に立ったのではない。わが国の存亡《そんぼう》の決まる日がすぐそこに見えているために、これが最後のチャンスと奮《ふる》い起《た》って立ったのだ。どうぞ愍《あわれ》みたまえ」
ネルスキーの熱演に拘《かかわ》らず、金博士は依然として後向きになって西瓜の種をぽりぽり噛みつづける。そこでネルスキーの顔色が、また一段と赤くなって来た。それは大焦燥《だいしょうそう》のしるしである。
「おお金博士、なぜ黙って居られる。ふん、そうか。さっきから、わしがあれほどくどくどといっても返事をしないところをみると、さすがの金博士も、わが宰相が持ちだした問題があまりにむつかしいために、手出しが出来ないのだな。それに違いない。それ故《ゆえ》、ろくろく口もきかないのだ」
ネルスキーは、ついに勘忍袋の緒を切らしたという風に、あくどい罵言《ばげん》をはきはじめた。それでも金博士は、やはり西瓜の種を喰《くら》うことだけに口をうごかして、ネルスキーのためには応《こた》えない。が、今度だけは博士の眼がぎょろりと光ったのは、多少ともネルスキーの言葉が博士の皮膚の下まで刺《さ》したものらしい。
「そうじゃないかね金博士。お前さんは、この広い世界に只一人しかいないオールマイティーの科学者だということであるが、へん、オールマイティーが聞いてあきれるよ。ダイヤのクイーンか、クラブのジャックぐらいのところだろう。ねえ、そうじゃないか。わが聯邦が今死守しているシベリア地方から、あの呪《のろ》わしい雪と氷とを奪い去るくらいのことが、お前さんに出来ないのかね。シベリアの各港を不凍港《ふとうこう》にして貰いたいというのだ。シベリアに棲《す》むのに、毛皮の外套《がいとう》なんか用なしにして呉《く》れというのだ。ペチカも不要、犬橇《いぬそり》なんかおかしくて誰が使うかという風に笑い話の出来るようにして貰いたいのだ。いや、もう何もいうまい。われわれが抱いていた夢はすべて消えた。科学の魔王金博士が健在なる間は、われわれの望みはきっと実現されるものと思っていたが、そもそもそれが思い違いだった。なにが科学の魔王だ。シベリアから雪と氷とを追放するぐらいのことが出来ないで、へん、何が金博士さまだ」
「やろうと思えば、そんなことぐらい訳なしだ」
金博士が、西瓜を噛みくだく間に、ぽつんぽつんと言葉を挟《はさ》んでいった。
「ええええええっ!」
と、ネルスキー特使は、金博士の言葉をきいて椅子からすべり落ちた。よほどおどろいたものと見える。
「あれっ、早《はや》もう重心方向が変ったかな。この太っちょの特使閣下が安定を欠《か》いて椅子から滑り落ちるとは……」
金博士は、人のわるいことをいう。
ネルスキーは、腰のあたりを痛そうにさすりながら立ち上ったが、彼はすぐ金博士の手をとって押し戴《いただ》き、
「そういうこととは存ぜず、さきほどから失礼いたしました。今更ながら、博士の学問の深く且《か》つ大きいことについては驚嘆《きょうたん》の外《ほか》ありません。どうかわが国を救っていただきたい。九十九|路《ろ》は尽《つ》き、ただ残る一路は金博士に依存する次第である。金博士よ、乞う自愛せられよ」
有頂天《うちょうてん》になったネルスキー特使は、まことに現金なごま[#「ごま」に傍点]をする。
「で、博士。それなら実際問題として、どういうことをなされます。これは宰相に報告する貴重なる材料となりますので、ぜひお話し置き願いまする」
「さっきから聞いていれば、わしが一口|喋《しゃべ》る間にお前さんは二十口も喋るね。北国人《ほっこくじん》には珍しいお喋りじゃ」
「これは御挨拶《ごあいさつ》です」
「まず何よりも決めて貰いたいのは報酬《ほうしゅう》問題じゃ。これが成功の暁には何を呉れますかな」
「ああ報酬ですか。これは申し遅れて、まことに申訳なし。わが宰相から委任されている範囲内でもって、如何様なる巨額の報酬でもお支払いいたす。百ルーブル紙幣を、博士の目の高さまで積んでもよろし
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング