間、決して主人のところへ行って彼を殺さなかったという証明が出来てもいいんです。これにもいろいろの場合があるが、例えばですね、その一時間半に亙って、小林さんは自分の部屋から一歩も外へ出なかったということを、あなたが証明出来るなら、小林さんは晴天白日の身の上になれるんです。どうですか芝山さん」
 帆村のこの言葉は、芝山宇平を痛烈に突き刺したようであった。芝山は、いきなり腕を前に振ると、頭を両腕の中に抱えて俯伏した。そしてなかなか顔をあげなかった。
 このとき一座の視線は、この芝山と帆村とに集っていた。
 やや暫く経って、芝山は顔をあげた。真赤な顔をしていた。
「どうか、おトメさんに会わせて下さい」
 彼は切ない声でいった。
「小林さんは重大なる容疑者になっているから、今君を会わせることは出来ないですよ」
「そうですか」力なく彼は肯いた。
「じゃあもう仕様がない。何もかも申上げます。実はわしは昨夜十一時から今朝まで、おトメさんの部屋にいました。だからおトメさんが、今あなたが仰有った十一時から一時間半は、あの部屋から一寸も出たことがないのです。つまり、おトメさんの部屋で、わしがおトメさんの横に寝ていましたから……」
 芝山は遂にたいへんな[#「たいへんな」は底本では「たいへん」]ことを告白した。

   意外又意外

「すると、君は昨日夕方自宅へ帰って自宅に朝まで寝ていたというのは一体どうしたんですか」
 と、帆村は冷然として芝山に訊問を続ける。
「あれはわしが家内にそういって、嘘をいわせたんです。でないと、わしは御主人殺しの関係者と睨まれて、うちはたいへんなことになるから、わしは自宅に居たことにするんだぞと家内を説き伏せたわけです」
「それを妻君にいったのはいつですか」
「今朝のことです。旦那様がいけないと分ってから後で、ちょっと家へ帰って参ったんです」
 芝山の言葉つきが、始めは爺むさくそして要点の話になるとすっかりすっきりした言葉になることを、帆村は興深く聞きとめていた。それは兎に角、これで芝山宇平と小林トメとの秘密な情交関係が分ってしまった。芝山は小林を救うために、小林のアリバイを証明しなければならなくなったのだ。そのために五十男は全身びっしょり汗をかいて告白をしたが、小林トメはまだそんな秘事が洩れたとは知らないで居る。それと分ったときに、この家政婦は一体どんな顔をすることであろうか。
「君は、花活にピストルを入れに来た人間を見なかったのですか」
 帆村は、さっきもちょっと口にしたことを表立った問題として訊いた。
「いいえ、見ませんでした」
 芝山は否定した。
「君は、亀之介氏が帰って来たのを知っていますか」
「はい、存じて居ります」
「亀之介氏は、階段の下で、小林さんに冷い水を大きなコップに入れて持って来いと命じたが、その声を聞かなかったですか」
「はい、確かに聞きました。わしはおトメさんの蒲団の中にいながら、外の方に聞き耳を立てていましたから、それを確かに聞いたです。そしてそのあとおトメさんが勝手元の方へ行った様子ですから、これはあぶないぞと思いました」
「なるほど。それで……」
「それでわしは、すぐ蒲団から出るとわしの枕を抱えて、押入れの中に逃げこみました。そして蚊帳《かや》を頭から引被って、外の様子に聞耳を立てていました」
「すると、どうしました」
「すると、誰かが戸を開いて、部屋へ入って来た様子です。それはおトメさんではない。おトメさんなら、すぐわしを呼ぶ筈です。何しろ蒲団の中にわしの姿がないんですからなあ。……ところが、入って来た者は、何にも声をかけないのです。しばらく部屋の中を歩き廻っているらしかったが、そのうちがちゃんと音がしました。瀬戸物の音です。瀬戸物に何かあたる音でしたがなあ、確かに聞いたのですよ」
「どの辺りにその音がしましたか。花活のある辺りではなかったでしょうか」
「そうかもしれません。いや、確かにその方角でした。……それから間もなくその人は部屋を出ていきました」
「結局その謎の人物は何分ぐらい部屋にいたことになりますか」
「さあ、どの位でしょう。気の咎めるわしにはずいぶん永い時間のように感じましたが、本当は三十秒か四十秒か、とにかく一分とかからなかったと思います」
「その者が部屋を出て行く時、君はその者の顔か姿を見なかったのですか」
「いいえ、どうしまして。わしはもう小さくなっていました。それからしばらくして、外に――階段の下あたりに、おトメさんの声がしました。それから暫くたって、今度はおトメさんが本当に部屋に入って来たらしく、入口に錠を下ろし、それから上へ上ってから、『おやお前さん、どこへ隠れてんのさ』といいました。そこでわしは、枕を抱えて押入れから出ました。おトメさんはおかしそうに笑っていました」
「もうよろしい、そのへんで……」
 と、帆村は芝山の陳述を押し止めた。そして一先ず元の部屋へ引取らせた。
 芝山が退場すると、長谷戸検事以下の全員が帆村探偵の方を向いて、破顔爆笑した。芝山に小林との情事をぶちまけさせたのが、面白かったのであろう。帆村はわざとしかつめらしい顔で一同の方にお辞儀をした。
 そして口上を述べた。
「今ごらんに入れたのが第二幕でございました」
 検事がにこにこ顔で、軽く拍手した。検事の屈託のない人柄を、帆村は以前から尊敬していたので、もう一つお辞儀をした。
「帆村君の見せてくれるものは、これで終ったのかね」
 と大寺警部が聞いた。警部もいつになく弛んだ顔をしている。
 すると帆村が、警部の方へ向いていった。
「いや、まだ第三幕以下がございます。しかし第三幕は、僕が出しません。そのうちに他の人が、その幕を揚げてくれる筈でございます。暫くどうぞお待ち下さい」
 そういっているとき、奥から警官が急いで入って来た。
「只今、裁判医の古堀博士からお電話でございまして、旗田鶴彌の解剖は終りましたそうで……」それから警官はメモの紙片の上を見ながら「旗田鶴彌の死亡時間は午後十一時三十分前後で死因はピストルの弾丸ではなくて、心臓麻痺だそうです。詳しいことは、明日報告するといわれました。おわり」
 旗田鶴彌の死因は、ピストルの弾丸ではなくて、心臓麻痺だ――と古堀裁判医がいったというのだ。
「そ、そんなことがあるものか」
 と、大寺警部は腹立たしげに叫んだ。
「ふしぎだ、ふしぎだ」
 と、長谷戸検事も俄かに信じかねている様子だった。他の係官も、事の意外に呆然としている。只、帆村荘六だけが、にやりと笑って、シガレット・ケースを出して、しずかに指先にその一本を抜きながら、
「第三幕です。これが第三幕です」
 と、呟くようにいった。

   護送車

 まことに意外な裁判医の報告だった。
 被害者旗田鶴彌は後頭部を撃ち抜かれて死んでいたのに、裁判医は「死因はピストルの弾丸ではない、心臓麻痺だ」といって来たのである。これでは長谷戸検事たちの困惑するのも無理ではない。一発弾丸を発射してあるピストルが家政婦小林トメの部屋の花活の中から発見せられ、これこそ事件の最有力な鍵として検事たちを悦ばせ、捜査と関係者訊問はそのピストルを中心に結集せられていたのであるが、大体その謎が解けようとしたときに、突然裁判医からのあの電話であった。折角ピストルを土台として積みあげたものが、この電話によって一瞬の間にがらがらと崩れてしまったのである。なんということだ。無駄骨と知らずに、ここまで一所懸命に追って来たのである。
 長谷戸検事は、無言で椅子の背を抱えている。今朝からの疲労が一度に出てきたという顔つきであった。ピストルを発見した殊勲の佐々部長刑事は、もっとがっかりした顔になって、開け放しになった口を閉じようともしない。検事の隣の椅子では、大寺主任警部が、これは又今にも怒鳴りそうなおっかない顔であたりを見廻わしている。帆村探偵は、部屋の隅っこで、静かに煙草の煙を天井へふきあげている。
「今日はもう訊問はよそうや。訊問をやっても仕様がない」
 長谷戸検事が突然椅子からぴょんと躍り上るようにして立って、そういった。皆は一斉に検事の顔を見た。
「ねえ、そうじゃないか。ピストルで撃たれて死んだのではなく心臓麻痺で死んだというが、それならそれで、裁判医から詳しく説明を受けないことには、われわれには一向に納得が行かない。そして捜査方針を改めて建直さにゃならない。だから訊問も捜査も一応中休みとして、明日の午前、裁判医を僕の部屋へ呼んで聴くことにする。時刻は九時半としよう」
 検事のこの言葉に、一同は肯いた。
「検事さん。土居三津子が今護送されて、この邸へ到着する筈ですが、これはどうしますかね」
 大寺警部が訊いた。
「それも同じことだ。死因がはっきりしないのに、その女を訊問しても仕様がないからね」
「ははあ」
 大寺警部はちょっと不満のように見えた。
「じゃあ訊問しないで、廻れ右を命じますね」
 検事は返事の代りに、首を縦に振った。
「分っているだろうが、事件の関係者はこの邸から外へ出さないことだ。亀之介、小林トメ、芝山宇平、本郷末子の四人だ。いいね」
 現場係の巡査部長が、畏ってそれを承知した。それから長谷戸検事は、部下をひきつれて真先にこの邸を出ていった。帆村は椅子から立って、検事に軽く礼をしたが、検事はそれに気がつかないのか、すたすたとこの部屋を出ていった。
 次に大寺警部の一行が帰り仕度を始めた。それについて帆村も一緒に部屋を出た。玄関のところで帆村は呼びとめられた。友人の土居が待っていたのだ。
「どうしたんだ。妹がここへ送られて来るという話だけれど、どうなるんだ」
 土居は心配を四角い顔一杯にひろげて、帆村にきいた。帆村はその訳を話してやった。
「そうか。すぐ警視庁へ送りかえされるのか。どうだろう、その前ここでちょっと妹に話が出来ないだろうか」
「駄目だろうね」
 帆村は気の毒そうに応えた。
「それに、こんなところで話をすると、後で検事の心証を害する虞れがある。適当な時に弁護士を立てて、それを通じて面会するのがいいね」
 帆村は正しいやり方を薦めた。警部たちが門を出ようとしたとき、三津子を護送した本庁の幌自動車が警笛をならして門内へ入ろうとしたので両者が鉢合わせとなった。土居が自動車の方へ駈出して行ったので、帆村もすぐその跡を追った。警部は、停った自動車の中へ二言三言いった。すると自動車はそのまま邸内の庭へ入って来て、ぐるっと一廻りをすると門から出て行った。帆村は土居の腕をしっかり抑えながら、それを見送った。薄暗い自動車の中に、三津子に違いない女性の姿がちらりと見えた。向こうでも気がついたか、三津子は座席から前へ乗り出したが、そのときはもう兄や帆村が見えない角度になってしまっていた。帆村は土居の肩を叩いて、自分と一緒に事務所へ来るようにといった。

   帆村の事務所(一)[#「(一)」は縦中横]

 事務所の扉を開くと、帆村を助手の八雲千鳥が出て来て迎えた。
「いらっしゃいまし」
 と、土居の方へ挨拶をした。それから無言で帆村の方へ頭を下げた。
「何も用事はなかったんだね」
「はい。別にお知らせするほどの急ぎものはございませんでした。もう現場の方はお済みですか」
「今日の方はお仕舞となった。……で、君は僕が何処に居たか、知っているのかい」
 帆村の眼が悪戯児《いたずらっこ》のように光った。
「先生、そんなことぐらい、ちゃんと分っていますわ」
 八雲千鳥は、遠慮がちに笑って、帆村の顔と客の顔を見た。
「じゃあ訊くが、何処だい」
「旗田さんのお邸でしょう」
「その通りだ。――でどうしてそれが分ったのかね、僕は何も君へノートを残して置かなかったのに……」
「ノートを残していらしったじゃございませんの」
 八雲助手の声に、得意の響きがある。
「はてね」
「灰皿に真黒焦げになって紙の燃え糟がございました。その燃え殻の紙には、鉛筆で書いた文字の痕が光って残っていました。鉛筆は石墨ですから、火で焼いても光は残って居るわけでご
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