ざいますわね」
「もうよろしい、君は大分仕事に慣れて来たようだ」
 帆村はそういってにんまり微笑した。
「一体どうしたんだね、今の話は。まるでこんにゃく問答で、僕にはさっぱり通じやしない」
 と、土居が二人の間へ割りこんで来た。
「ははは、今の話かね、こういう訳なんだ、僕が今朝君の電話で事務所を出て行ったとき、この八雲君はまだ事務所へ来ていなかった。そこで僕は旗田邸へ行ったことを紙に鉛筆で書いて、それを机の上に残して行こうと思ったが、ふと思いついて、その紙を灰皿の上で火をつけて焼いてしまったんだ。紙は焼けて黒い灰と化するが、八雲君のいったように鉛筆の痕は残っている。それに八雲君が気がつくかどうかをちょっと験してみたというわけだ。ところがお嬢さんはちゃんと気がついた。そこで及第点を与えたという、それだけのこと」
「ふーン、なるほどね。探偵商売もこれじゃ芯が疲れるわい」
 土居は八雲千鳥に替って、ポケットから手帛《ハンカチ》を出して自分の額の汗を拭いた。帆村は土居を奥の書斎へ導いた。そこは雑然と書籍が積みあげられ、実験室には電気の器械器具が並び、レトルトや試験管が林のように立っていて、博物館と図書室と実験室を一緒にしたような混雑を示している部屋だった。帆村は、この雑然たる部屋を滅多に掃除させなかった。これはたとえ一枚の紙片が掃きとばされても重大な結果となることがあったし、また薬品の一壜が壊されても非常に困ることがあったからである。
「まあ、そこへ掛けたまえ」
 帆村は時代のついた籐椅子を、彼の大机の方へ引寄せて土居に薦めた。そして帆村自身は、大机に附属している皮革張りの廻転椅子に尻を下ろした。その廻転椅子は心棒がどうかしていると見え、彼が尻を下ろした途端にがくんと大きな音をたてて後へ傾いた。しかし帆村は平然たる顔で、机上のケースから煙草を一本とって口にくわえた。
「さあ、君もこれをやり給え。これは昔の缶入煙草のチェリーなんだからね」
 土居は愕いていた。そういう太巻煙草の缶入が昔あったことは、話に聞いていただけだったから。帆村はマッチの火を土居にも貸して、うまそうに紫煙を吸いこんだ。
「妹はどうなんだろう。嫌疑はますます濃くなって行くんだろうか」
 土居は心配そうに訊ねた。
「そうとはいえないと思う」
 帆村は考えながら応えた。
「僕の観察では君の妹さんに対する係官の嫌疑材料は、今日一日で、まだいくらも殖えなかったと見ている。むしろ妹さん以外の人物へ、新しい嫌疑の眼が向けられ、妹さんの容疑点数はいくらか減ったようにも思われる」
「さあ、その話――今日の調べの話をすっかり僕に聞かせてくれないか」
 土居の要求を容れて、彼は今日正午頃から旗田邸に於いて行われた取調べについて詳しく話をした。その話の途中、土居はいくたびか帆村の話の中へ質問を割り込ませようとしたが、帆村はそれを止め、最後まで話を聞いた上にしたまえと勧めた。話はようやく終りとなった。

   弾丸が綴る言葉

「さあ、もう何でも質問していいよ」
 帆村は、途中で八雲助手の持って来たコーヒーのカップを取上げて、咽喉を湿した。コーヒーは、すっかり冷くなって、底には糟がたまっていた。
「どうも奇々怪々だね。旗田鶴彌を殺したのはピストルの弾丸だというんで、それを中心に調べていたところ、最後に至って、いや死因はピストルで作られたのではなく、心臓麻痺だった――というんでは、たいへんなどんでん[#「どんでん」に傍点]がえしじゃないか。死因が心臓麻痺なら、旗田鶴彌殺しという犯罪は成立しないことになる。すると妹は即刻殺人容疑者という醜名から解放されていいわけだ。ねえ、そうじゃないかね」
 土居の言葉にも動作にも、新しい元気が溢れて来た。
「一応そういうことが成り立つわけだ。しかし僕の受けた印象では、この事件はそれで結末がつくとは思えない」
「……というと、どうなるんだ」
「いいかね、これは明日裁判医古堀博士の報告を聴いた上でないとはっきりいえないんだが、まあそれはそれとしてだ、旗田鶴彌氏の心臓麻痺は極めて自然に起ったものか、それとも不自然なものであったかによって、又新しく問題が出来るわけだ」
「どういうことだ、その自然とか不自然というのは……」
「つまり、死ぬ前の旗田氏は心臓麻痺を起すかもしれないというほどの病体にあったかどうかが問題なんだ。もし氏が健康を損ねていて、いつ心臓麻痺が起るかもしれないと、医師が警告していた――というような事実が発見されるなら、旗田鶴彌殺害事件なるものは著しく稀薄になるんだ。しかし反対に、旗田氏が心臓麻痺などを起すような病体でなかったということが証明されると、やっぱり旗田鶴彌殺害事件として扱わねばならなくなる」
「君は、どっちだと考えるのか、今までの材料と君の感じとでは……」
 土居は妹の有罪無罪の判別を、帆村の次の一答によって決しようとて緊張の絶頂にあった。
「やっぱり殺害事件だと思うよ」
 帆村は静かにそういった。
「しかも恐るべき殺害事件なんだ。今日までに余り例のないやり方でもって旗田氏は殺害されたものと信ずる」
 帆村の声は、うわごとをいっているように響いた。それは彼が本当に戦慄していることを語るものであった。
「君は誰が犯人であるか、知っているのかね」
 土居の言葉は鋭かった。
「知らない、全く知らない」
「犯人の見当ぐらいはついているのじゃないかい」
「いや見当もついていない」
 帆村は首を左右に振った。
「それに、犯人の見当などをいい加減につけようものなら、真実が分らなくなる虞れがある。犯人の見当をつけてから、証拠を集めるやり方はよろしくない。あくまでも、確かな証拠を一つ一つ積みあげていって、その結果犯人の形が浮び上ってくるのでなければならない。こんなことは今更君に説明するまでもないことだけれど」
 帆村は、まだ誰を犯人とも見当をつけていないことが、この話から分明となった。
「確かな証拠というやつは、もう相当集っているのかい」
「うん。僕としてはいくつかのそれを持っている、動かない証拠をね」
「じゃ、それは今どんな形に積みあげられているのかね。どんな方向に向いているのか」
「まあ、それはいわないで置こう」
 帆村は土居の方をじっと見た。
「その証拠なるものが語る謎の言葉を、僕はまだ殆んど聞き分けることが出来ていないんだ。口惜しいことだがねえ」
 二人はしばらく沈黙に陥った。部屋の窓から、夕空が赤く焼けているのが見られた。

   帆村の事務所(二)[#「(二)」は縦中横]

 やがて土居が口を開いた。
「ピストルに関する調べは、全く無駄に終ったわけだね、なにしろ死因がピストルの弾丸でないと分ったから……」
 帆村は黙って土居の顔を見る。
「ねえ帆村君、そうだろう。すると、その取調べの途中に、重大なる容疑者として新しく登場した小林トメなんかは、容疑者から解放されたわけだろう」
「ピストルは、やっぱりこの事件に重大な役割をつとめていると思う。だからそれに関する取調べは無駄ではないと思うよ」
「なぜさ。意味がないものは消去して考えたがいいと思うがね」
「しかしねえ、君」
 帆村は吸殻を灰皿の底にすりつける。
「たとえ旗田氏が心臓麻痺で事切れた後とはいえ、ピストルは旗田氏に向けて発射されたんだからねえ。引金を引いた主は、旗田氏に対して或る感情を持っていたことになる。つまり、旗田氏の頭部へ弾丸を送り込んだということは、彼が一つの言葉を綴って残したことになるんだ。このことは君にも分るだろう」
「旗田氏を撃ったことが一つの言葉を現わしている――ということは分るがねえ……」
「それが分れば、ピストルがこの事件に重大な役割を持っていることが分るじゃないか」
「なるほど、それはそうだ。だが、一体それはどんな言葉を綴っているんだろう」
「綴っているのはどんな言葉か。それはこれから解きに掛るところだよ。そして重要な点は、あのピストルの引金を引いた主が、そのとき既に旗田氏が死んでいるのを知っていたか、それとも知らなかったのか、そこだと思うよ」
 帆村の言葉を聞いて土居は笑い出した。
「旗田氏が既に死んでいると分っていれば、御丁寧にピストルの引金を引くこともなかろうじゃないか。だから当人は、旗田氏が既に死んでいることを知らなかったに違いない」
「君は常識家として正しいことをいっている。しかしだね、引金を引くときには、狙う相手を注視しなければならない。そのときに、相手が既に死骸であることに気がつかない場合というのが一体あるであろうか」
「それはないだろうね。死んでいるか生きているかは、一目見れば分ることだからね」
 と土居はそう言った後で妙な顔をした。
「おやおや、僕はいつの間にか矛盾したことを喋っているぞ」
「いや、それは大した矛盾ではない。君は、一目見れば死んでいるか生きているか分るといったが、もし一目さえ見ることが出来なかったら、或いは相手をはっきり見ることが出来なかったとしたら、相手の生死を判別し得ない場合が生ずるんだ。例えば、相手が暗闇の中に居る、それに対してピストルの引金を引き、奇蹟的に命中した場合……」
「それは吾々の場合ではない。なぜって先刻君は、芝山宇平の証言として、旗田氏の部屋には電灯が煌々と点っていたといったじゃないか」
「今吾々は一つの演習をやっているんだが、君が気になるなら、この場合はあり得ないとして、横に置こう。……もう一つの場合としては、引金を引いた者の視力が非常に弱いか、それとも精神が乱れていて、旗田氏が既に死骸であることを判別し得なかった場合――こういう場合がある」
「ふーン、すると誰がやった仕業かな」
「ああ、それがよくない」
 帆村が舌打ちをした。
「まだ実証上の条件が揃っていないのに、軽々に人物を決めてかかるのはよくない。非常に危険なことだ」
「だけれど、僕は君のように冷静ばかりで押して行けないよ。だってそうじゃないか、僕の妹が絞首台へ送られるか送られないですむかの瀬戸際に今立っているんだからね。一秒でも早く犯人を突留めたい。犯人らしい有力者でもいいが……」
「深く同情する。しかしそういう場合であるが故に、一層君は冷静でなくてはならないと思う」
「いや、僕はもう我慢が出来ない。皆はっきりさせてしまわないでは居られないんだ」
 土居は激しく喘いだ。
「ピストルをぶっ放したのは誰だ。そのピストルは家政婦の部屋から出て来た。家政婦が撃ったに違いない。家政婦は旗田鶴彌に深い恨みを抱いていたんだ」
「家政婦が撃ったと決めるのは軽卒に過ぎる。家政婦があのピストルを使ったものなら、花活の中なんかにピストルを隠しておくものか。部屋を調べりゃすぐ分るからね」
「そうでない。巧妙な隠匿場所だ」
「それに、あのピストルの弾丸が、どの方向から、そしてどんな距離から飛んで来たのかを考えてみたまえ。あれは少くとも旗田の身体から三メートル以上は離れたところから撃ったものだ。そしてその方向に窓があることを思い出したまえ」
「窓? 窓は閉っていた」
「うん、窓は閉っていた、硝子扉が平仮名のくの字なりになって閉っていた――と芝山は証言している。ということは、硝子窓は、いつになく、よく閉っていなかったんだ。内側のカーテンも細目に開いていたという。だから外から窓を開いてピストルの狙いをつけて撃ったんだとしても、今いった条件にあてはまるわけだ」
「すると……」土居は愕きの目をみはって、
「すると犯人は窓の外からピストルを室内へ向けて撃ったというのかね」
「犯人――かどうか知らんが、引金を引いた主は、窓の外から撃った公算大なりと、僕は認めている。このことは尚明日、はっきりした証拠を現場でつかみたいと思っている。もし時間に余裕があればね」
「そんな大事なことなら、今日のうちに調べて置けばよかったのに」
「なあに、ピストルを何処から撃ったかという問題は、大して重大なことじゃないんだ。だから急いで調べるに及ばない」
「僕は反対だ。それは非常に重大なことと思うがね。窓の内側
前へ 次へ
全16ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング