じゃないのですか」
「そんなことは全然ありません」とお末はいまいましそうに、どんと床を踏みならした。
「あたくしはこの一ヶ月、御主人さまの前へ出たこともございません。御主人さまの御用は、みんな他の方がなさるんでございます」
「本当ですか」
「あなただって一目でお分りになりましょう。あたくしみたいな器量の悪い者は、殿方が見るのもお嫌いなのでございます」
「まさか、そんなことが――」
「いえ、お世辞をいって頂こうとは思いませんです」
 ひょんなことになってしまって、帆村はあとの言葉が続かず立往生だ。
 そのとき幸運は帆村を救ってくれた。それは本庁から、例の空き缶がここへ届けられたのである。
 二重の白い布片にまかれてあった空き缶は大寺警部の手によって小卓子の上でしずかに布片を解いて、取出された。
(あッ――)
 帆村は硬直した。口の中で、愕きの声をのんだ。彼は見たのだ、大寺警部が取出した問題の空き缶をお手伝いお末が一瞥した瞬間、彼女はそれまでの落着きを失って、はっとなって目を瞑じ、次に目を開いたときには明らかに愕きの色を示して、大きく目をみはり、息をすいこんだのである。手応えがあった。思いがけない手応えがあったのだ。帆村の心は躍った――。
「どうです、お末さん、この缶は……」と帆村は極力冷静を維持しようと努めながら呼びかけた。
「実物を見ると、なるほどこれなら知っていると、気がついたでしょう。どうです、お末さん」
 お末は返事をしなかった。
「お末さん。あなたはいつこの缶詰を手に持ったのですか。どこで持ったのですか」
「……存じません。全然あたくしには覚えがないんですの」
「だってそれじゃあ君、まさかあなたの幽霊が指紋をつけやしまいし、説明がつかないじゃないですか。あなたがこの缶を手に持ったことは明々白々なんだ」
「あとでよく考えてみますけれど、全くあたしには合点がいかないんです」
 お末の取調べはその位にして、一時下らせるより外なかった。
 帆村は係官の前へ出て、自分の困惑を正直にぶちまけた。
「お末さんが、なぜあんなに頑強に『全然覚えがない』といい張っているのか、訳が分りませんね。それが解けると、この事件は解決の方向へ数歩前進すると思うんですがね」
「今まで気がつかなかったが、あのお手伝いはなかなか変り者だね」と長谷戸検事が本格的に口を開いた。
「帆村君のいう彼女の頑張ぶりを解く一つの手段として、あの女の住居を家宅捜索してみたらいいと思う。佐々君、君ちょっと行ってみてくれんか」
 部長刑事の佐々は、令状を貰って、すぐ出発した。お末の住居は、新宿の旭町のアパートであった。

   小休憩

 調べ室は、そこで暫くの休憩をとることとなり、お茶がいいつけられた。一同は隅っこに椅子を円陣において、煙草をふかしたり、ポケットから南京豆をつまみ出してぽりぽりやる者もあった。お茶が配られると、一同は生色を取戻した。なにしろ厄介な事件である。一体どこへ流れて行くのか分らない。帆村もお茶をすすりながら、メモのページを指先でくりひろげて見ている。大寺警部が長谷戸検事に話しかける。
「長谷戸さん。一体どこで犯行を確認するんですかね。つまり、ここの主人は病死か、他殺か。他殺ならば、どうして殺されたか。それをどこで証明したらいいのですかね」
 三津子を犯人と見て、自信満々だった大寺警部も、このところすっかり自信を失ったらしい。とはいえ、帆村が今やっている脱線的捜査方針には同意の仕様がないと思っているらしい。
「もうすこし捜査を進めてみないと何にもいえないと思うよ。しかし今やっていることは決して無駄じゃないと思っている。なにしろ今まで手懸りと見えたものが、みんな崩壊しちまったんだ。この上は、すこしでも腑に落ちない点を掘り下げていくより方法はないと思うね」
 検事は、間接に帆村が今とっている捜査方針を是認した。
「そうでしょうかねえ。だが、あの空き缶が犯行に一体どんな役目を持つと考えられますか。土居三津子の証言によると、あの缶詰はあけない先から、からっぽ同様に軽かったそうですね。しからば、あの中に入っていた内容物が、鶴彌の胃袋に入って中毒を起したとは考えられない」
「胃袋に入ったとは考えられない。しかし肺臓に入ったとは考えられなくもない」
「肺臓というと……肺臓になにが入るのですか」
「瓦斯体がね。つまり毒瓦斯だ。この缶詰の中に毒瓦斯がつめてあったとすれば、そんなことになるはずじゃないか」
「毒瓦斯がこの缶詰の中につめてあったというんですか。それは奇抜すぎる。少々あそこの先生かぶれですな」
 大寺警部は、向こうでメモのページをめくっている帆村の方へ、ちらりと目を走らせた。
「そうなんだ、帆村名探偵かぶれなんだ」
 検事はにやにや笑った。そのとき帆村が、ぴょ
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