なたにおたずねしたいのは、事件の当夜、あなたはこの部屋へ入って来られて、この空缶を見ましたか。どうです」
 帆村の目は、するどく三津子の横顔へ。
「さあ……空缶は見ませんでしたけれど……」
 否定はしたが、三津子はあと口籠った。
「見ませんけれど――けれど、どうしたんですか」
 三津子は写真の中を熱心に見入りながら、
「この缶でございますね、レッテルの貼ってない裸の缶で、端のところに赤い線がついている……」
「そうです。それです」
 帆村はその細い赤線がついていたことまで覚えていた。そして検事の方へ目配せした。検事は心得て、大寺警部に耳うちをして、本庁へ電話をかけ、その空缶をすぐここへ持ってくるように命じた。
「その空缶は、たいへん軽い缶詰ではございませんか」
「えッ……そ、そうかもしれません]
 帆村は電撃をくらったほど愕いた。“たいへん軽い缶詰”――そんなことは今まで想像したこともなかった。帆村は愕いたが、三津子の方は別に愕いていなかった。
「その缶詰なら――その缶詰なら、あたくしはこの部屋で見ました。しかしこの写真にあるように、あけてはございませんでした」
「あけてなかったというんですね」帆村の顔はいよいよ青白くなる。
「あなたは、その缶詰をどこで見ましたか」
「その小卓子の上にありました」
「この小卓子の上にね。たしかですね」
 帆村の額に青い血管がふくれあがる。
「たしかでございます。あたくしがこの部屋に入って参りましたとき、先生――旗田先生は小卓子の脇を抜けてその皮椅子へ腰をおろそうとなさいましたが、そのときお服がさわりまして、あの缶詰が下にころがり落ちました。あたくしは急いでそれを拾って、この小卓子におのせしました。するとそのとき先生はお愕きになって――下は絨毯ですから、軽い缶詰が落ちても大きな音をたてなかったので、先生はそれにお気づきになっていなかったようでしたわ――それで、あたくしをお睨みになって『余計なことをしてはいかんです』と仰有いました」
「なるほど。それからどうしました」
「それから――それから先生はその缶詰をお持ちになって、あそこの戸棚の引出におしまいになりました。それから元の椅子へおかえりになりました」
「なるほど、なるほど」帆村は昂奮をおさえつけようとして、しきりに瞼をしばたたいている。
「あなたが拾いあげた缶詰はたいへん軽かったというが、どれ位の重さだったんですか」
「さあ、どの位の重さでしょうか」と三津子は困惑の表情になったが、やがていった。
「信用して下さるかどうか分りませんが、それはまるでからっぽみたいでございました」
「中で何か音がしなかったですか」
「さあ、気がつきませんでございました」

   お手伝いお末の訊問

 三津子が退場して、次はお手伝いのお末が呼ばれることになった。
 今しがた三津子が証言していった缶詰にまつわる謎は、すぐその場で解きがたいものであっただけに、係官たちはお手伝いお末が次に如何なる証言をして、連立方程式の数を揃えてくれるかと、興味を深くしていた。
 お末こと、本郷末子は、例のとおり黄いろく乾からびた貧弱な顔を前へ突出すようにして、鼠のようにちょこちょこと入って来た。
 帆村はお末を招いて、例の写真を見せ一応説明し、それから訊いた。
「この缶詰の空缶ですがね、あなたはこれをどこで見ましたか」
「あたくしは何にも存じません」
 と、お末ははげしく首を左右に振って、度のつよい近眼鏡の下から、とび出た大きな目玉を光らせた。
「いや、あなたが知らないことはないんです。よく心をしずめて、思い出して下さい」
 帆村はやさしくいった。
「全然存じませんもの。いくらお聞きになっても無駄です。あたくしはこのお部屋へお出入りすることは全然ございませんのですもの」
「それは確かですか。事件の当日、この部屋へ入ったことはありませんか」
「あたくしは誓って申します。あの日、この部屋へ入ったことはございませんです」
 ヒステリックな声で、お末は叫んだ。
「しかしねえ、お末さん。この缶詰には、あなたの指紋がちゃんとついているのですよ」
「まあ、そんなことが、……そんなこと、信ぜられませんわ」
「あなたの指紋がついているかぎり、あなたはたしかにこの缶詰にさわったことがあるわけです。さあ思い出して下さい。どこであの缶を見たか、そしてさわったか……」
「……」
 お末は唇をかんで、首をかしげて考えていた。
 沈黙の数分が過ぎた。
「まだ思い出せませんか。あなたは、この缶詰が空き缶になっているときに見ましたか、それともまだ空いていないときに見ましたか」
「見ません。全然あたくしは見たことがないんですから、そんなこと知りません」
「あなたはこの缶詰を、亡くなったこの家の主人鶴彌氏のところへ届けたの
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