、この缶詰だけ知らないというのか。これはたしか、中が洗ったように綺麗な空き缶だったね」
「そうです」
「君は、この缶詰の中から毒瓦斯がすうッと出て来たと考えているんじゃあるまいね」
と検事の言葉に、
「ははは、まさかそんなことが……手品や奇術じゃあるまいし。はははは」
帆村が応える代りに、先へ笑ったのは大寺警部だった。
「この缶詰の中に毒瓦斯を詰めることは困難でしょうね」と帆村は真面目な顔でいった。「この缶詰は普通の缶でした。瓦斯を封入するには少くとも二箇の特殊の穴を明け、その穴をあとでハンダでふさいでおかなければなりますまい。しかしそんな痕もない全く普通の缶だったのです。もしそれが出来たら、大寺さんのいわれる手品か奇術です。いや、手品や奇術や魔術でも、この缶にそれを仕込むことは不可能でしょう」
「しかし、この空き缶が一体どうしたというんだろう[#「いうんだろう」は底本では「いうだろう」]」
検事はふしぎでたまらないという風にひとり言をいって、首を振った。
「検事さん。こうなると、あの空き缶についている指紋がたいへん参考になるんですが聞いて頂けませんか。もう鑑識課で判別した頃じゃありませんか」
「うむ、それはいいだろう。おい君――」
と検事は、部下のひとりを呼んで、電話をかけさせた。
その部下は、間もなく紙片を手に持って、一同のところへ戻って来た。
「このとおりだそうです」
帆村と検事とが、左右からその、紙片を引張り合って覗いた。
「指紋ハ四人分有リ。ソノウチ事件関係者ノ指紋ハ、旗田鶴彌、土居三津子、本郷末子ノ三名ノ分。他ノ一名ノ指紋ハ未詳ナリ」
鶴彌の指紋があるのは当然として、土居と女中お末の指紋があるとは、事重大であった。それからもう一人未詳の人物が、この事件に関係したことが新たに判明したのだ。一体それは何者だろう?
缶詰の軽さ
興味ある四種の指紋だ。この缶詰の空缶[#「空缶」は底本では「空詰」]に、四人の指紋がついている。主人鶴彌の指紋がついていることは、何人にも納得がいく。彼はこの缶詰を前にして死んでいたのだから。
しかしこの缶詰を開いたのは、果して彼鶴彌であったかどうか、それはまだ分っていない。またその缶詰が、彼の死に関係があるのかどうかも、まだ分っていないが、帆村探偵はこの缶詰に非常な興味を持ち、とことんまで洗いあげる決心でいる。
そしてもしこの缶詰が万一鶴彌の死に関係があったとしたら、それは一体どういう形でこの事件の中へ食い入っているのであろうか。帆村はそのことをちらりと思い浮べただけで、昂奮の念を禁じ得なかった。
土居三津子の指紋が、なぜあの空缶についているのであろうか。帆村としては、三津子の潔白を既に証明し得たつもりで今はもう安心していたのだ。ところがここに突然三津子の指紋が問題の空缶の上にあると分って、三津子に再び疑いの目が向けられることとはなった。
お手伝いのお末の指紋が発見されたことは、この事件の一発展だった。お末のことは、今までほとんど問題になっていなかった。彼女は鶴彌殺しの容疑者としてはほとんど色のうすい人物だった。しかるに今、突然お末の指紋が空缶の上に発見されたのである。一体お末はいつその缶の上に彼女の指の跡をつけたのであろうか。常識では、お末はこの缶詰とは関係がないものと思われる。なぜなら家政婦小林トメでさえ、この缶詰を前に見たこともないし、主人の部屋へ持って来たおぼえもないといっているのだ。ところが、その缶の上にお末の指紋がついていたということは、そこに何かの異常が感ぜられる。お末が指紋をそれにつけた場所と時間とが分ると、この事件を解く一つの有力な鍵が見つかったことになるのではあるまいか――と、帆村はひそかに胸をおどらせているのだ。
更に興味津々たるは、第四の指紋の主のことである。彼(または彼女)は、これまでにこの事件に登場したことのない人物なのである。果して如何なる人物であろうか。それこそ兇悪なる真犯人であるかも知れない。また、それは事件に関係のない売店の売子の指紋であるのかも知れない。
さて、旗田邸に集まる検察官と帆村探偵のところへ鑑識課から右の指紋報告の電話が来て、ひとしきり討論が栄えたあとで、長谷戸検事は、帆村が引続いて取調べを進行させる意志があるなら、暫く君に委かせておいていいといったので、帆村は肯いて、自ら取調べ続行をする旨表明した。
「土居三津子氏をここへ呼んで頂きましょう」
帆村の要請は、係官たちもそれが当然の順序だと同感した。そして三津子が再びこの部屋に入って来た。
「おたずねしますが、この写真のここにうつっている缶詰の空缶が一つあります。これはこの写真のとおり、この小卓子の上に載っていたもので、今本庁へ持っていっています。――そこであ
前へ
次へ
全40ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング