じゃないのですか」
「そんなことは全然ありません」とお末はいまいましそうに、どんと床を踏みならした。
「あたくしはこの一ヶ月、御主人さまの前へ出たこともございません。御主人さまの御用は、みんな他の方がなさるんでございます」
「本当ですか」
「あなただって一目でお分りになりましょう。あたくしみたいな器量の悪い者は、殿方が見るのもお嫌いなのでございます」
「まさか、そんなことが――」
「いえ、お世辞をいって頂こうとは思いませんです」
ひょんなことになってしまって、帆村はあとの言葉が続かず立往生だ。
そのとき幸運は帆村を救ってくれた。それは本庁から、例の空き缶がここへ届けられたのである。
二重の白い布片にまかれてあった空き缶は大寺警部の手によって小卓子の上でしずかに布片を解いて、取出された。
(あッ――)
帆村は硬直した。口の中で、愕きの声をのんだ。彼は見たのだ、大寺警部が取出した問題の空き缶をお手伝いお末が一瞥した瞬間、彼女はそれまでの落着きを失って、はっとなって目を瞑じ、次に目を開いたときには明らかに愕きの色を示して、大きく目をみはり、息をすいこんだのである。手応えがあった。思いがけない手応えがあったのだ。帆村の心は躍った――。
「どうです、お末さん、この缶は……」と帆村は極力冷静を維持しようと努めながら呼びかけた。
「実物を見ると、なるほどこれなら知っていると、気がついたでしょう。どうです、お末さん」
お末は返事をしなかった。
「お末さん。あなたはいつこの缶詰を手に持ったのですか。どこで持ったのですか」
「……存じません。全然あたくしには覚えがないんですの」
「だってそれじゃあ君、まさかあなたの幽霊が指紋をつけやしまいし、説明がつかないじゃないですか。あなたがこの缶を手に持ったことは明々白々なんだ」
「あとでよく考えてみますけれど、全くあたしには合点がいかないんです」
お末の取調べはその位にして、一時下らせるより外なかった。
帆村は係官の前へ出て、自分の困惑を正直にぶちまけた。
「お末さんが、なぜあんなに頑強に『全然覚えがない』といい張っているのか、訳が分りませんね。それが解けると、この事件は解決の方向へ数歩前進すると思うんですがね」
「今まで気がつかなかったが、あのお手伝いはなかなか変り者だね」と長谷戸検事が本格的に口を開いた。
「帆村君のいう彼女の
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