今、わが艇を、鎖で吊り上げている巨船は、たしかに米連の軍艦だと思われた。その艦名をたしかめたかったが、生憎《あいにく》とわが艇は、敵艦の真下にいるので、敵艦の形を見ることが出来なかったし、舷側《げんそく》に記してある艦名を読むことも出来なかった。いよいよ海面に吊り上げられてみなければ、この無礼至極《ぶれいしごく》な敵艦が何艦であるか、解らないのであった。だが、先刻からの事情を綜合して、これが米連の主力艦のうちの一隻であることには間違いがないと思った。
「深度四十二、四十一、四十、三十九」
 オルガ姫は、たいへんな事実を、機械的に喋っている。私の心は、ますます不安の底に落ちていった。
(なんとかして、この危機から脱出したい!)
 が、私はもう敵手から、到底《とうてい》脱《のが》れ切れないわが運命を悟った。
(おめおめと、敵艦に収容されるのか!)
 いや、断じて、そんなことはいやだ。ではどうする。自決するか、それとも……。
 そのときである。一つ、思いだしたことがあった。それは、かのX大使のことであった。
 X大使!
 かの不思議な大使は、常に私を圧倒していたが、
(救援が欲しかったら、わしに求めるがいい。わしは、ちょっとした交換条件をもって、君たちを全面的に援助するだろう。それを忘れないで……)
 と、謎の言葉を残して去ったのだ。私は今、ゆくりもなく、X大使のこの言葉を思い出したのである。
(X大使の救援を求めようか。求めるのはいいが、X大使のいった、ちょっとした交換条件とは、一体どんなことであろうか)
 私は、交換条件のことが、たいへん気になったけれど、ここで敵艦に捉《とら》えられるよりはずっとましであると思ったし、死ぬのも残念なので、遂に、前後の考えなしに、X大使の救援を求める気になった。
 さて、救援を求めるのはいいが、一体どうすればいいのであろうか。どうすれば、X大使を呼び出すことが出来るのであろうか。
「おーい、X大使。私に力を貸して呉れたまえ」
 私は、試みに、そう呼ばわってみた。


   X大使の魔力――三角暗礁にもどってこられた


「黒馬博士。君は、とうとう、わしを呼んだね」
 X大使の声だ!
 全く不意に、私の耳のすぐそばに口をつけて囁《ささや》くように、X大使の声が聞えたのであった。
 私は驚いて、顔を横に向けた。だが、そこは艇の冷い鋼鉄の壁があるばかりで、X大使の姿はなかった。
「さあ、早く、君の希望をいうがいい」
 声だけのX大使は、再び私に話しかけた。私は、手を伸ばして、大使の声のする空間を触《さわ》ってみたくてたまらなかったけれど、なんだかおそろしくて、どうしても手は伸びなかった。
「……深度、二十九、二十八、二十七」
 オルガ姫は、あいかわらず、淡々たる声で深度を数えている。わが艇は、刻一刻、ぎりぎりと音のする鎖によって海面へ吊りあげられていくのだ。
「X大使。私は、敵の捕虜になりたくないのだ。それから又、わが艇の内部を敵に見せることを好まないのだ」
「それで……」
「それで、私とわが艇とを、敵の手から放して貰いたい」
「よろしい。そんなことはわけなしだ。君は、望遠鏡で鎖を見ていたまえ」
 X大使がそういったので、私は急いで、望遠鏡に目をあてた。
「いいかね。鎖は今、ばらばらに切れてしまうだろう」
 大使の声が終るか終らないうちに、不思議なことが起った。二本の鎖が、ぷつんと切れた。その鎖は、わが艇の舳《へさき》に懸っていたものであったから、鎖の切れた瞬間に、わが艇は、ぐらっと前にのめった。
 つづいて、胴中に懸っていた五、六本の鎖が、まるで紙撚《かみよ》りが水にぬれて切断するかのように、ぷつんぷつんと切れた。わが艇は、舳を下にして、真逆さまになった。
 最後に、尾部に懸っていた二本の鎖が切れて、四本の鎖となって、びーんと跳ねあがった。
「深度四十、四十二、四十四、……」
 オルガ姫の声は、忙しい。
「ありがたい。敵の手を放れた!」
 私は、躍り上りたいくらいの悦びを感じた。
「エンジンをかけろ。深度五十で喰いとめろ」
 私は、つづいて命令を発した。
「エンジン、駄目です。故障を起していて、もうかかりません」
 オルガ姫が叫ぶ。
「ええっ、エンジンが駄目か。それは弱った。じゃあ、わが艇は、これからどんどん沈んで、海底にもぐりこむだけだね。どうかならないか、X大使」
「エンジンをなおすのは、わしには出来ない。すこし複雑すぎるからね」
「でも、折角《せっかく》助けてもらったのに、このままでは、海底で寒さと飢えのため、死ぬばかりだ。どうかして、手を貸して呉れたまえ」
「わしに出来ることは、君の艇を、三角暗礁の埠頭につけることだ」
「そうして貰えば、こんな幸いなことはない。あとは、向うの工作機械をつかってなおすから……」
 といったが、私は、X大使が三角暗礁を知っているのに、ひそかに舌を捲いた。
「そんなことなら、訳なしだ。ほら、その出入口の扉を開いて見たまえ」
「えっ、何だって」
「何だっても、ないよ。もう、ちゃんと、三角暗礁の埠頭に横づけになっているよ。嘘だと思ったら、外を見るがいい」
「それは嘘だ。たった今、敵艦の鎖をふり切ったばかりなのに……」
 と、私はいったが、念のためと思い、外を覗《のぞ》いて見て、おどろいた。正しく艇は、三角暗礁の洞穴に入っている。そして、ちゃんと例の埠頭へ横づけになっているのであった。
「これは、不思議だ」
 まるで、夢のような話であった。X大使の不思議な力は、幾何学を超越している。
「オルガ姫、出入口の扉をあけろ」
「はい」
 扉は、あいた。扉の向うには、太い鋼管で出来た通路が見える。なるほど、たしかに三角暗礁へ戻ってきたのである。私は、X大使の不思議な力に対する検討はあとのことにし、オルガ姫を促して、通路を伝わって内部へ入った。
 私は、なによりも、執務室へ飛びこんで、机の上にあった「三角暗礁日記」の頁《ページ》を繰った。
「ほう、これは愕いた」
 頁の上には、たしかに私が書き残して置いた日記文があった。間違いなく、私は三角暗礁へ戻ってきたのだ。だが、私の日記文のあとに、もう一行、私の筆跡でない記事が書きつけられてあった。
“○月○日、黒馬博士艇は、X大使の救助をうけて、破損せる艇もろとも、この三角暗礁へ帰還せり”
 私は、うーむと、唸《うな》った。


   旗艦《きかん》ユーダ号――ピース提督を訪問せよ


 後で思い出しても、そのとき私は、さもしい気を起したものだと、冷汗が流れるのだが、日記のうえの、X大使の記事を見ると、私はついむらむらと不快な気分になった。そこで私は、ペンを取り上げて、日記の頁に向った。
「おい、黒馬博士。待ちたまえ」
「うむ」
 X大使の声だ。大使は、まだ私の身辺にいたのである。
「折角わしの書いておいた記事を、君は消すつもりではあるまいね」
 私は無言で、ペンを捨てた。私は赤面した。
「黒馬博士。わしは、二度、君の希望に従い、協力した。もう一つ、わしは君に力を貸してもいいと思っている。で、どうだね、これから、米艦隊の旗艦に、司令長官ピース提督を訪問してみてはどうかね」
 X大使は、とんでもないことをいいだした。
「もとより、それは希望するところであるが、これから、どうして敵の旗艦に近づけばいいか。私が甲板《かんぱん》を踏む前に狙撃でもされれば、おしまいだ」
 と、私がいえば、X大使の声は、
「そんな心配は無用だ。安全に行ける方法がある。君は、ピース提督に会い、そして安全にここへ戻って来られるのだ。決して間違いのないことを、わしは保証する」
「しかし、私には信じられない。少くとも敵は、私を捕虜にしないではいないだろう」
「安心したまえ。ねえ、黒馬博士。君は、わしの力を信じないのかね。あの七、八本の鎖を切断したときのことを考えて見給え。それから、一瞬のうちに、三角暗礁へ艇をつけてあげたことを考えてみるがいい。君は、私の力を信じないのか」
「いや、信じないわけではない。しかし、私には、君が何故そのような不思議な力を持っているか、それが解らないのだ。また、なぜ、そんな不思議なことが出来るのか、理解できないのだ。これまで君のやっていることは、物理学の法則を蹂躙《じゅうりん》している」
「あははは、物理学の法則を蹂躙しているは、よかったねえ。しかし、これは、人間――いや君たちの勉強が、まだ不充分なためだよ」
「なんだと……」
「わしの力の不思議さを探求したかったら、わしを信じてこれから旗艦ユーダにいってみるがいいではないか」
「うむ」私は、しばらく黙考した。
 とにかく私は今、昔日の黒馬博士とは似もつかないほど、自信を失っている。X大使の、この超人間な偉力に圧倒されているうえに、クロクロ島は沈没し去り、魚雷型潜水艦はめずらしく故障となり、それから鬼塚元帥との連絡が、ぱったり杜絶《とだ》えてしまったのである。なにもかも、滅茶滅茶である。しかも、クロクロ島を沈没させ、私を捕虜にしようとした憎むべき無礼なる米連艦隊は、なお付近を游弋《ゆうよく》しており、もし自分の推測にまちがいないならば北上して日本本土を衝《つ》こうとしているのだ。過去において、これほど私が自信を失った経験はないのである。そこで私はあえてX大使のすすめに従おうと決意したのであった。
(X大使の魔術にのるなんて、危いではないか!)
 と、後世、或いはいう人があろう。しかし私は、X大使のこの超人間的な力を、単に魔術だとは、解していないのであった。それは、或る非常にすぐれた科学だと思っている。科学というよりも、技術といった方がいいかもしれないが……。
 X大使は、恐らく、世界最高の学者ではないかと思う。真にすぐれた学者が、自分の究めた科学力をひっさげて、自分の意志のままに、世の中を闊歩しはじめたら、これは手がつけられないだろう。
 X大使は、正にそれだ。
 汎米連邦の国力よりも、欧弗同盟の兵力よりも、X大使の意志こそ、この際、最も恐るべきものである――と、私は信じたことであった。
 行こう、X大使とともに。そして、しばらくX大使の魔術ではない魔術を静観しよう。
「では、X大使。私を、米連艦隊の旗艦へつれていって呉れたまえ」
「よろしい。向うへいったら、君が訊《き》きたいと思うことを訊いてよろしい。しかし、わしの代りに、一つ二つ訊いてもらいたいことが出来るかもしれない。そのときは、ぬかりなく、やってくれたまえ。むろん相手には、悟られぬようにな」
 X大使は、妙な注文をつけた。私は承知した。
「さあ、それでは……」
 と、X大使がいったかと思うと、私は、急に目まいがした……。と、またX大使の声だ。
「おい、しっかりしろ。旗艦ユーダ号の司令長官室だ。今、ピース提督が、ひとりで、この部屋へ戻ってくる。しっかりやれ!」


   司令長官室――透明人間


 さして広くはないけれど、どこかの宮殿の模型のような、飾りたてた部屋である。
 正面にはどっしりした事務机があって、そのうえには書類がひろげ放しになっている。その前には会議|卓子《テーブル》があって、周囲《まわり》には、やわらかそうな皮製の椅子が、十ほど並んでいる。壁には、複雑なパネル型の通信機が、取りつけてあるすばらしい司令長官室だ。
 私は、長官ピース提督の椅子に腰をおろして、彼がこの部屋に戻ってくるのを待つことにした。そしてそのついでに、長官の机上に散らばっている書類を、片っ端から拾い読みをしていった。
 その書類の多くは電報だった。
 それを読むと、米連艦隊は、いま日本を最後の目標として、南方から肉迫せんとしているところだし、他方欧弗同盟は、アジア大陸の日本を北及西から攻撃せんとしており、大東亜共栄圏はもちろんのこと、日本は南北から挟撃されようとしていることがはっきり分った。
(ひどいことをしやがる。有色人種の犠牲において、白人たちがいいことをしようというのだろう)
 私は、そう思わないではいられなかった。これは私だけのひ
前へ 次へ
全16ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング