な何物も持っていなかった。
私が、呆然《ぼうぜん》として、顛覆した自動車に、腰をかけていると、後方から、数台の快速自動車が追いかけて来た。
私は、また敵が現われたかと、顔をしかめて痛む腰をあげ、オルガ姫を楯として、身構えた。
(第五列だ)
と思う間もなく、車は停った。
車上からは、十数名の軍人がばらばらと下りてきた。
「おお、黒馬博士。お身体に、お怪我はありませんでしたか。私は鬼塚元帥の副官であります」
そういって、りっぱな将校が、私の前へ、元帥の書面を出した。
“コノ者ニ伴ワレ、スグ来レ。鬼塚”
私は将校を見上げた。
「貴官は、本物でしょうな」
「田島大佐です」
「しかし、第五列が猖獗《しょうけつ》をきわめているようじゃありませんか。現に私は今……」
「申し訳ありません。私たちも、途中で、第五列部隊のため、妨害をうけたのです。もちろんそれは、プラットホーム付近で、博士を誘拐《ゆうかい》する目的だったのでしょう。とにかく、近頃めずらしい事件です」
「事件のあとで、めずらしい事件だと感心していては困るですね」
「全く、御説のとおり。警備部隊の引責はのがれませんが、またその一方において、敵がいかにわが黒馬博士を高く評価しているかという証拠になります。博士、今後も、どうぞ御注意のほどを……」
「わかりました」
私は、田島副官の率直なことばに、好感をもって、それまでの不機嫌を直して、
「私が、早くに、この女は第五列だなと、気がついたから、よかったようなものの、気がつくのが遅ければ、どこへ連れていかれたか分らんですぞ」
「大きに、御説のとおりです。して、その第五列というのは、どこにいますか」
「顛覆している自動車の中を見てください。そこに、運転手もろとも、長くなって伸びているでしょう」
私が、そういうと、田島大佐は、部下を随《したが》えて、壊れた自動車の中をのぞきこんだ。
「おやッ、マリ子じゃないか」
大佐は、びっくりしたような声を出した。
「御存知でしたか、その女を……。さだめし、黒表《ブラックリスト》にのっている豪の者なんでしょうね」
と、私がいえば、大佐は硬い声で、
「いえ、博士。この女は、元帥の秘書のマリ子でありますぞ」
「なに、元帥の秘書のマリ子?」
私は困惑した。
「そうですか、それにちがいありませんか」
「たしかに、マリ子です。マリ子の顔を見まちがえるようなことはない」
やっぱり元帥の秘書だったのか。私は、とんだ失策をやってしまったと思った。仕方がないから、私は、マリ子がたしかに第五列の一員と思われたから、毒瓦斯で殺してしまったのだと、率直に一切を白状して、何分の処分を、大佐に委せるといった。
「あははは。これはおかしい」
と、田島大佐が、私の話をきいているうちに、腹をかかえて、笑いだした。私は、むっとした。
「なにが、おかしいのですか。私が失策したことが、そんなにおかしいのですか」
私は、大佐のへんじ如何によっては、いってやりたいことばがあった。
「いや、博士。これは、とんだ失礼を。笑ったのは、博士が思いちがいをしていられるからです。元帥の秘書のマリ子なら、毒瓦斯などで死ぬような者ではありません。なぜといって、マリ子は人造人間なんですからね」
「ああ、やっぱり人造人間ですか」
では、私におけるオルガ姫のようなものだ。
「そうです、人造人間です。ですから、毒瓦斯を吸って死んだマリ子は、にせ者のマリ子にちがいありません。そして、そいつは、生身《なまみ》の人間でしょう。いま、よく調べてみます」
大佐は、そういって、自動車の中から、マリ子をひっぱりだした。彼は、マリ子の頸のあたりをしきりに調べていたが、やがて、
「おお、やっぱりそうだ」
といって、指先で、マリ子の皮膚をいじっているうちに、ベリベリと音をさせて、マリ子の頸《くび》のところから顔面へかけて皮膚を、はいでしまった。その下からは、マリ子とは、似てもつかない鼻の高い、白人女の顔が出て来た。
「マスクだ。巧妙なマスクを被っていたのだ。元帥秘書のマリ子と、そっくりの完全マスクを被っていたのだ」
私は、万事を悟って、苦笑した。なんだ、つまらない奇計《トリック》である。
大佐は、白人女の死顔を、じっと眺めていたが、
「はて、この顔は、見覚えがある。これはたしか、アストン女史というポーランド女だ。アストン女史が、東京へはいりこんで活躍するとは、はて、訳がわからないぞ」
大佐の疑問は、尤《もっと》もであった。私には、見当がつかない。ポーランド女が、なぜ東京へはいりこんで、私にクロクロ島のことを聞きだそうとしたのであろう。
それから二十分ほど後、私たちは、鬼塚元帥と、大きな卓子《テーブル》を囲んで、向いあっていた。
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