を張り、堂々と世界の海をおさえているのは、まことに愉快なことである。
「おお、黒馬博士、お出迎えにまいりました」
 一人の美しい婦人が、私の前に立って、いんぎんに挨拶した。
「やあ、ご苦労です」
「鬼塚元帥が、たいへんお待ちです。どうぞ、お早くこの自動車《くるま》へ……。申しおくれましたが、妾《わたし》は、鬼塚元帥の秘書のマリ子でございます」
「やあ、どうも」
 鬼塚元帥も、このように目のさめるような美しい人造人間を使っていられる――と、私は妙なことを感心した。


   毒|瓦斯《ガス》――スパイの活躍


 私たち三名は、すばらしい流線型の自動車に、乗り込んだ。
 これは完全流線型というやつで、二枚貝の貝殻一つを、うんと縦に引伸し、そして道路の上に伏せた――といったような恰好であった。むかしの人が見たら、まさか、これが自動車だとは、気がつかないであろう。
「元帥閣下は、そんなにお待ちかねの様子でしたか」
「はい、それはもう、たいへんお待ちかねで、潜水洞四十三番へ、たびたび電話をおかけになるというようなわけで……」
「元帥閣下は、なにか、怒っていられる様子は、なかったですか」
「いいえ、たいへん上機嫌でいらっしゃいました。どうやら、あなたさまは、御栄転になるとの噂が専らでございますわ。黒馬博士、このたび、あなたさまは、どっちの方面から、お帰りになったのでございますの」
「今度はね、私は……」
 と、いいかけて、私はとつぜん、ごほんごほんと咳《せき》こんだ。こいつは油断がならない。マリ子という女は、へんなことを尋ねる。ことによると、第五列かもしれない。
「ああ、苦しい。海上があまり涼しかったもので、すっかり咽喉をこわしてしまいましてねえ。おい、オルガ姫|咳止《せきど》めの丸薬をくれないか、三粒あればいいよ」
 オルガ姫は、私の前にいたが、鞄の中から、丸薬《がんやく》入りの缶を出して、私の掌《てのひら》に、三つの黒い丸薬をのせた。
「水、水を早くくれ」
 オルガ姫は、水筒の水を、大きなコップに三分の一ほどついだ。
 私は丸薬を掌にのせたまま、まず、水をぐっと呑みほした。
「あら、水の方を、先にお呑みになって……」
 と、マリ子は、怪訝《けげん》な顔。
 私は、彼女の見ている前で、更に怪訝なことをやってみせた。それは、そのコップを下におかないで、いきなりコップの口で、私の鼻と口とを覆ったのである。
 コップの口は、ぐちゃりとなって、私の鼻と口とのまわりに密着した。――このコップは、口のまわりだけが粘質硝子《ねんしつガラス》で、できているので、こうすると、うまく顔に密着するのだ。
「あなた、しっかりしてください。気が変になったのでは……」
 と、マリ子が、さわぎたてるのを尻眼にかけて、私は掌にのせていた三つの黒い丸薬を、ぱっと足もとに投げつけた。
「呀《あ》っ!」
 とたんに、丸薬はとび散り、それに代って、うす紫の瓦斯が、もうもうと立ちのぼりはじめた。
「ああッ、毒|瓦斯《ガス》!」
 マリ子は、あわてて、座席から腰をあげ、自動車のハンドルに手をかけた。
 だが、毒瓦斯の効目《ききめ》の方が、もう一歩お先であった。マリ子は、ハンドルを握ったまま、顔色を紙のように白くして、どうと、前にのめったのである。おそるべき第五列の女スパイの死だ。
「おお、あぶない」
 私は、そのとき、快速力で走っていた自動車が、エンジンを停め、ゆうゆうと頭をふって、地下道の壁に突進していくのを認めた。運転手も、マリ子と名のる女スパイとともに、毒瓦斯にやられてしまい、レバーやハンドルから、手を放してしまったのである。
 私は、ぐにゃりと伸びた運転手の肩ごしに、手をのばして、ハンドルをぐっとつかんだ。
 片手でハンドルを握ったのだ。
 無理である。たいへん無理である。しかし私は、死にものぐるいで、ハンドルを左に切った。地下道の厚い壁はわが自動車めがけて、鋼鉄艦のごとく驀進《ばくしん》してきたが、私が、力一ぱいハンドルを切ったため、壁は、ぐーッと右に流れた。
「おお、これで衝突をのがれたか……」
 と思ったが、とたんに車体は、左に傾くと思う間もなく、呀っという間に、顛覆《てんぷく》してしまった。
 そのとき、自動車の硝子戸が、うまく壊れてくれなかったら、私はコップを鼻や口から外し、わが撒いた毒瓦斯により、自ら生命を縮めたかもしれない。コップを放すのが、窓硝子のこわれたよりも遅かったため、私の一命は、幸いに助かった。
 それでも、しばらくは胸が灼《や》けつくようで、とても気持がわるかった。私は、オルガ姫をよんで、外に助けだされた。
「ふん、おどろかせおった。このマリ子という奴は、どこの国のスパイだろうか」
 私は、マリ子の服を改めたが、彼女は悪心ぶかく、証拠になるよう
前へ 次へ
全39ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング