ピース提督は愕きに負けまいとして、あぶら汗をかいて頑張っているのが、私にはよく分った。
 私はいつの間にか、透明人間になっていたわけである。X大使はよくこれと同じことをやって、私を愕かせたものである。今それを私がやっているわけだ。ふしぎだ。ふしぎはふしぎであるが、なんという愉快なことであろう。こっちは絶対優勢、向うは白旗をかかげるほかはない。
 そのとき提督は、自分の席についた。彼の顔はなんとなく、生気をとり戻したようだ。
「さあ、余は腰をかけた。君もその椅子に、腰をおろしたまえ、四次元の人!」


   四次元跳躍術《よじげんちょうやくじゅつ》――大東亜共栄圏から


 四次元の人!
 ピース提督は私に対して、そうよばわった。
(ああ、四次元の人!)
 私はそのことばを、青天の霹靂《へきれき》のごとく感じた。
(そうか、四次元の人だったか。うっかり私は、そのことを忘れていたのだ。そうだったか。これは魔術ではなかったのだ。私は今、四次元の世界にとびこんでいたわけか)
 四次元の世界にとびこむとは、知っている人は知っている。知らない人には、これを説明して聞かせることがちょっと、むつかしい。しかし、なるべくわかりやすく、かんたんにいえばこうである。……
 われわれ人間は、三次元の世界にすんでいる。三次元とは、すべての物が、三つの元からできていることで、すべて物には横があり縦があり、高さがある。
 ところが、もし今、横と縦とだけがあって、高さのない世界があると考えよう。横と縦との二次元の世界である。われわれより一次だけ少い世界である。この二次元の世界は、横と縦とだけで、高さがないのだから恰《あたか》も紙の表面だけの世界である。つまり平面の世界である。――これに反して、われわれの三次元世界は、立体の世界だ。
 二次元の世界に、生物がすんでいたとしよう。その者は、われわれ三次元の世界を考える力がない。つまり高さということを全く知らないのだから。紙の表面のことは分るが、その表面から、わずか一ミリメートル上のところでさえ分らないのだ。だから、紙の上に、林檎《りんご》がぶらさがっていても分らない。ただ、林檎を紙のうえへ置いたときは、紙の面に接した林檎のお尻だけはわかる。
 だから、「これが林檎だよ」といえば、二次元の生物は、「林檎は輪の形をしている」と思う。紙と林檎との接したところは、大体《だいたい》輪になっているからである。そこで、人間が、林檎をもち上げると、二次元の世界から、直ちに林檎は消え失せる。ただ林檎の匂いだけは残る。
 そういう訳で、こんどは反対に、四次元の世界を考えることが出来る。四次元の世界は、残念ながら我々は三次元の世界の生物だから、どんな世界だか知る力が欠けている。その世界には、横と縦と高さの外にもう一つ、何か形をこしらえている軸があるのだ。そういう四次元の世界から、われわれ三次元の世界の人間を見れば、それは、われわれ人間が、白紙の上に棲《す》んでいると仮定した二次元の生物を見るのと同じことである。だから、もし私が、いま急に三次元の世界からつまみあげられて、四次元の世界へ移されたとしたら、どうであろう。すると、三次元の人間からは、私の姿は見えないであろう。しかし林檎の匂いが届くように、私の声だけは届くかもしれない。
 ピース提督は、今私のことを、「四次元の人よ」と呼んだが、提督は私を、四次元の生物だと思ったからであろう。
 私は、そうではない。
 だが、謎のX大使こそ、まさしく四次元の生物であると思われる。
 とにかく、私が気がつかなかったのにずばりと看破《かんぱ》したピース提督の科学の眼力のほどを、畏敬しないではいられない。――といって、ここで私が引下がる手はあるまい。私は強いて自分の心を激励しながら、ピース提督に対した。
「提督、貴艦隊はなんの目的をもって、北上せられつつあるか」
 私は、質問の第一矢を放った。司令官は、眼をぎょっとうごかして、
「それは、日本民族を、大東亜共栄圏から、叩きだすことにあるのだ」
「なに、日本民族を叩き出すといわれるか。日本民族を、元の日本内地へ押しこめることではないのか」
「ちがう。日本民族を叩きだすのだ」
「では、叩きだして、どこへ送るのか」
「適宜《てきぎ》に使役《しえき》するつもりだ。家僕《かぼく》として、日本人はなかなかよくつとめる」
「無礼なことをいうな」
 と、私は思わず提督の机上の書類函をとって、机の上に叩きつけた。電報紙は、ばらばらと宙に飛んだ。
「四次元の人、乱暴はよせ。君は、紳士と話しているのだ」
「何が紳士か」
 と私は、また呶鳴《どな》りつけたのだった。
「貴官は、日本民族を、家僕として使役するつもりだといっているのだ。日本民族が、アメリカ人の家僕などになって
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