壁があるばかりで、X大使の姿はなかった。
「さあ、早く、君の希望をいうがいい」
 声だけのX大使は、再び私に話しかけた。私は、手を伸ばして、大使の声のする空間を触《さわ》ってみたくてたまらなかったけれど、なんだかおそろしくて、どうしても手は伸びなかった。
「……深度、二十九、二十八、二十七」
 オルガ姫は、あいかわらず、淡々たる声で深度を数えている。わが艇は、刻一刻、ぎりぎりと音のする鎖によって海面へ吊りあげられていくのだ。
「X大使。私は、敵の捕虜になりたくないのだ。それから又、わが艇の内部を敵に見せることを好まないのだ」
「それで……」
「それで、私とわが艇とを、敵の手から放して貰いたい」
「よろしい。そんなことはわけなしだ。君は、望遠鏡で鎖を見ていたまえ」
 X大使がそういったので、私は急いで、望遠鏡に目をあてた。
「いいかね。鎖は今、ばらばらに切れてしまうだろう」
 大使の声が終るか終らないうちに、不思議なことが起った。二本の鎖が、ぷつんと切れた。その鎖は、わが艇の舳《へさき》に懸っていたものであったから、鎖の切れた瞬間に、わが艇は、ぐらっと前にのめった。
 つづいて、胴中に懸っていた五、六本の鎖が、まるで紙撚《かみよ》りが水にぬれて切断するかのように、ぷつんぷつんと切れた。わが艇は、舳を下にして、真逆さまになった。
 最後に、尾部に懸っていた二本の鎖が切れて、四本の鎖となって、びーんと跳ねあがった。
「深度四十、四十二、四十四、……」
 オルガ姫の声は、忙しい。
「ありがたい。敵の手を放れた!」
 私は、躍り上りたいくらいの悦びを感じた。
「エンジンをかけろ。深度五十で喰いとめろ」
 私は、つづいて命令を発した。
「エンジン、駄目です。故障を起していて、もうかかりません」
 オルガ姫が叫ぶ。
「ええっ、エンジンが駄目か。それは弱った。じゃあ、わが艇は、これからどんどん沈んで、海底にもぐりこむだけだね。どうかならないか、X大使」
「エンジンをなおすのは、わしには出来ない。すこし複雑すぎるからね」
「でも、折角《せっかく》助けてもらったのに、このままでは、海底で寒さと飢えのため、死ぬばかりだ。どうかして、手を貸して呉れたまえ」
「わしに出来ることは、君の艇を、三角暗礁の埠頭につけることだ」
「そうして貰えば、こんな幸いなことはない。あとは、向うの工作機械をつか
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