地球発狂事件
海野十三(丘丘十郎)

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)横溢《おういつ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)五千十七|米《メートル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定、誤記の訂正
(例)対し[#「対し」は底本では「封し」、6−上段−6]

底本のダブルミニュートは、「“」と「”」に置き換えた。
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  発端

 この突拍子もない名称をかぶせられた「地球発狂事件」は、実はその前にもう一つの名称で呼ばれていた。それは「巨船ゼムリヤ号発狂事件」というのであった。これは前代未聞のこの怪事件を最初に発見し、そしてその現場に一番乗りをした上に、全世界の報道網に対し[#「対し」は底本では「封し」、6−上段−6]輝かしき第一報を打つことに成功したデンマーク新報のアイスランド支局員ハリ・ドレゴの命名によるものであった。巨船ゼムリヤ号発狂事件――という名称からして既に怪奇味が横溢《おういつ》し只ならぬ事態が窺《うかが》われる次第であるが、それが後になって更に一層発狂的命名をもって「地球発狂事件」と唱えられるに至ったのである。この改訂の命名者は、ドレゴ記者と仲よしの隣人である同業の水戸宗一君であった。
 一体どうして巨船ゼムリヤ号が発狂したのか、また地球が発狂したのであろうか。率直にいって、この事件の名称はあまりに突拍子であり奇抜すぎて、なんだか本当のことのように思えないのである。ひょっとしたら、それはこれらの命名者であるドレゴ記者と水戸記者の、たちのよくない悪戯《いたずら》かもしれないと、始めはそう思った者もすくなくはなかったのである。
 ところが、この事件の内容がだんだんさらけ出されて行くにつれ、その怪奇なる点、桁外《けたはず》れの点、常軌を逸している点などで「発狂事件」と命名するより外に[#「外に」は底本では「外に他に」、6−下段−5]妥当なる名前のつけ方がないことが、誰にも首肯されるに至った。さてこそまことに天下一大事、この事件にまさる大事件は有史五千年このかた記録にも予想にもなかったといえる。前置きはこのくらいに停め、それは一体どんな事件であったかという記述にうつらねばならぬ。それにはこの事件の発見者である記者ドレゴ君を登場せしめることが最も効果的であろう。
 ドレゴ記者はオルタ町の郊外に、先祖伝来の家を持っていた。もちろん土地の旧家であって、農業や牧畜や交通について、彼の祖先は代々大きな権力をもっていたのである。ところが彼の父の代になって――というよりも数年前、このアイスランドがデンマーク領たることを御免蒙《ごめんこうむ》り独立してしまってからは、イギリス軍やアメリカ軍の進駐となり、古い淋しいアイスランドは急に夜が明けたように賑《にぎ》やかになった。そして彼の家も昔に増して大へんに忙がしくなったが、その権力の方は自然に消えていったのも仕方のないことであった。
 ハリ・ドレゴはこの家の長男で、今年二十四歳になる。前にもいったようにデンマーク新報の記者であるが、このような土地のことゆえ特権もなく、牡牛のように張り切っている彼にはむしろ気の毒の連続であった。
 自然彼は、町の酒場を歴訪するのがその日その夜の重大な仕事であった。新聞記者としての収入をあてにせずともよい豪家の長男坊のことだから、どこの家でも彼はちやほやされた。が、彼はちやほやされればされるほどそれが気に入らず、口にまで出していわないが、胸の中でむしゃくしゃしていたのである。
 そういう生活の中に、彼が話相手として或る程度の満足を得られる友人が一人だけあった。それは先にも名前をちょっと出したが、日本人記者で水戸宗一という三十歳ばかりの背の低い色の黒い男であった。
 例の事件を発見する日の前夜、ハリ・ドレゴは水戸を引張《ひっぱ》りまわして町中を飲み歩いた。この日二人の間には珍らしく議論が沸騰《ふっとう》したのである。それは「この世は神が支配し給うか。それとも悪魔が支配しているか」という問題だった。水戸は「もちろん神々によって支配されたる有難い世だ」と言ったのに対し、ハリ・ドレゴは「いや違う。この世は今や九百九十匹の悪魔と、僅か十人の神様とによって支配されているのだ。その生残りの神様も遠からず、この世から追放されてしまうであろう」と心細いことを主張して譲らなかった。水戸はドレゴの説をくつがえすために、色々と事実をあげて反駁《はんばく》した。がドレゴはいつになく水戸のいうことを聴かず、片端からあべこべの実例をもって水戸の甘い説を薙《な》ぎ倒《たお》していった。
 この論議は、ドレゴの家の玄関口まで続いた。水戸はこの友情に篤《あつ》いドレゴがその夜飲み過ぎたことと、日頃に似合わず虚無的な影に怯えているらしいことを案じて彼の邸まで送って来たのである。そのときはもうドレゴは前後不覚で、彼の体重は完全に水戸の身体に移っていた。時刻は午前二時に近かったろう。夏も過ぎようとする頃で、白夜が次第に夕方と暁方との方へ追いやられ、真夜中の前後四時間ほどは有難い真黒な夜の幕に包まれ、人々に快い休息を与えていた。水戸は邸の中から爺やの出てくる間、その闇の中に友を抱えてひょろひょろしながら、黒く涼しい風を襟元にうけて、蘇《よみがえ》[#底本ルビは「よみが」、7−下段−15]ったような気持ちにひたっていた。
「ああ、これは水戸様……おや、若旦那さまを。これは恐《おそ》れ入《い》り奉《たてまつ》りました」
 ガロ爺やは、恐縮して水戸の腕から重いドレゴの身体を受取った。そのときドレゴは突然頭を獅子舞のようにふりたて、
「いや、何といっても僕はこの目で見て勘定して来たんだ。九百九十匹の悪魔が棲んでやがるんだ。……いやいや、もう一匹いたぞ。ううん違う二匹だ。悪魔め、ちょっと僕が油断している間に、九百九十……九百九十五匹かな、九十四匹かな……ううい」
 後はガロ爺やの背中でむにゃむにゃいっていたが、それもやがて聞こえなくなった。爺やは水戸に丁寧に礼を述べて玄関口を閉め、それからアルコール漬の若旦那さまを担いで馬蹄形に曲った階段をのぼり、そして彼の寝台の上にまで届けたのであった。
 ドレゴは寝台の上に大の字になって倒れると、またしても声を出して「キ、君、悪魔集団は僕たちの隙を窺っているんだぞ。油断は……」
 あとは口の中、そしてガロ爺やが戸口を閉めて部屋を出て行くときには、若旦那さまの独白は大きな鼾《いびき》に変わっていた。

  稀代の怪事

 そのままで何事もなかったなら、おそらくドレゴは昼前頃までぐっすりと眠り込んだことであろう。
 ところがドレゴは思い懸けない出来事のため、それから一時間ばかり後に、一度目をさまさなければならなかった。
 泥のように熟睡していたドレゴをほんの数秒の間なりとも目を覚まさせ、むっくり寝台の上に起上らせるという力を発揮したものは、相当のものであった。ドレゴは愕《おどろ》いて目をさましたのだ、そして重い瞼を懸命に開いて、何か大きな音のした方を見廻したのであった。分かった。寝台と反対側の壁にかけてあった聖母マリヤの額像が半分に千切《ちぎ》れ、上半分だけが壁にぶら下ってまだぶらぶらしていた。下半分は絨氈《じゅうたん》の上に散らばって落ちているようであった。
「ちぇっ、うるせいぞ」
 半睡半醒の状態にあったドレゴは如何なるわけにて不思議にもマリヤの額縁が半分に叩き壊されて落ちたのかを探求する慾も起らず、物音のしたわけだけを了解すると安心してそのまま再び寝台の上にぶっ倒れて睡ってしまったのである。
 それから二時間ばかり経った。
 ドレゴは再び目をさまさなければならなくなった。それは異様な血みどろの悪魔が、彼を包んでしまってその恐ろしさと苦しさにどうしても目をさまさずにいられなかったのである。
「ああ――っ、夢だったのか……」
 ドレゴは、完全に目をさまして、寝台の上に半身を起こした。彼は沙漠を旅行した者のように、疲れ切っている自分を発見した。それから下腹が今にも破れそうに膨《ふく》らんでいるのに気がついた。いや、もう一つ、顔の左半面が妙にひきつっている。
 彼は手をそこにやってみた。指先にかさかさしたものが触った。何だろうと、手を引いて見ると、それは赤黒い血の固まりであった。彼はびっくりして顔から頭へかけて手で撫《な》でまわした。ぴりりと痛むところが一箇所みつかった。それは左のこめかみの少し上にあたるところで、毛根にがさがさするほど血らしきものがこびりついていた。

  承前・稀代の怪事

「いつ、やったのか。昨夜は大分飲んだらしいが、……はて、気がつかなかったぞ」
 ドレゴは寝台を下りた。寝台を下りるとき枕許をふりかえると、枕も夥《おびただ》しい血で赤黒く汚れていた。
 そのときも彼はその負傷が、昨夜の梯子酒《はしござけ》の行脚《あんぎゃ》のときにどこかで受けたものであろうとばかり考えていた。
 彼は、北側の壁にかけてある鏡の前に進み寄った。
「あ! ……」
 彼は自分の顔を、幽鬼と見まちがえた。そうであろう、顔色は青く、目は光を失い、頭髪は萱原《かやはら》のように乱れ、そして艶のない頬の上にどろりと、赤黒い血痕が附着しているのであったから。
 彼は、非常な後悔の念に駆られた。そして一刻も早くこのような幽鬼の形相から脱《のが》れたいと思った。そのために彼は、隣の化粧室の扉を蹴るようにして中へ飛び込んだ。
 水をじゃあじゃあと出して、顔をごしごし洗った。首筋から胸へかけても、ひりひりするほどタオルでこすった。うがいも丁寧に二度もやった。そして頭髪に爽快なローションをふりかけ、ブラッシュでぎゅうぎゅうとかきあげた。そして最後の仕上げをチックと櫛に托して、漸く鏡の中にこれなら見られる自分の顔を取戻したのであった。
 彼は長大息した。こびりついて放れそうもなかった悪夢が、あらかた彼の身体から出ていったように思った。いやまだ悪夢の断片がまだどこか、この化粧室に残っているような気がする。
 彼は周章《あわ》てて化粧室をとび出した。そして元の寝室へ戻った。そして南向きの窓のあるところへいっていっぱいにレースのカーテンをひろげた。
 午前四時のすがすがしい空気が、ヘルナー山の方から彼の胸に向ってぶつかった。彼は目を細くして大きく呼吸をした。真夏といえども山頂に白く雪の帽子を被つているヘルナーの霊峰、そしてその山腹に残っている廃墟オルタの城塞の壁。毎朝目をさますと、きまってドレゴはこのヘルナーの霊峰とオルタの古城を仰いで宇宙万象古今へ挨拶を贈るのであった。この朝彼は不慮の負傷のため、聊《いささ》か順序をくるわしはしたが、今や新しい精進の気持ちをもって、気高い霊峰の上へ目をやったのであった。
「おお、わが霊の峰ヘルナー。永遠に汚れなくあれ、われは今……」
 といいかけて、ドレゴは突然声を停めた。彼の厳《おごそ》かな態度は俄《にわか》に崩れた。彼の目には怪しい光があった。そして狼狽《ろうばい》の色が顔一杯に拡がり、そして全身へ流れていった。
「変だよ、変なものが見える、ヘルナーの峰に……」
 ドレゴは、窓から半身を乗りだして、白い雪の帽子を被ったヘルナーの峰を見つめていたが、いくど目をしばたたいてみても、霊峰の上に船の形をしたようなものが見えるのだった。
「莫迦《ばか》な……」
 それでも彼はまだ自分の頭を信じなかった。目を信ずるわけにいかなかった。その揚句《あげく》彼は一旦窓から半身を引っ込めた。そして再び彼の姿が窓に現れたときには、彼の手には長く伸ばした望遠鏡が握られていた。接眼鏡は左手によって彼の目に当てられた。右手は望遠鏡の先の方を窓枠にしっかりと固定した。焦点が合わせられた。彼の視野に、浅みどり[#「浅みどり」は底本では「朝みどり」、10−下段−6]の空と、白い峰の雪とが躍った。やがて彼の探らんとする物体が、レンズの中央にしっかりと像を結んだ一瞬、彼は心臓をぎゅっと握られたように愕いた。
「おお
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