……こんな奇妙な風景があるだろうか……」
 彼は見たのだ。信じられないものを霊峰の上に見たのだ。それは彼の目によって見、彼の頭脳によって判断すると、ヘルナー山の峰の雪の上を、一隻の汽船が航行しているのである、船体をやや斜めに傾けて……。
 そんなことが有り得べき道理はない。海抜五千十七|米《メートル》のヘルナーの峰に、大海を渡るために作られた汽船が航行中というのはおかしい。が、いくら目をこすってみても、望遠鏡の焦点を再調整してみても、ヘルナーの山頂には少しも変わりなき異風景が見られたのである。ドレゴは遂に暈《めまい》を催《もよお》した。彼は望遠鏡を窓枠の上に置くと、そのまま窓の下にへたへたと崩れ座った。そして彼は目を両手で蔽うと、大きな声で泣き出した。それは彼自身が急に身体の調子を失して発狂したのだと思ったからであった。

  登山準備

 ドレゴが再び雄々しく立上ったのは、それから五分も経たない後のことだった。彼が若し自分が新聞記者であることを忘れていたとしたら、いつまでも窓の下で狂おしく泣いていたかもしれない。
「……これは特種《とくだね》だ。すばらしい、特種だぞ。いや、恐るべき大事件だ。前代未聞の怪事件だ……」
 ドレゴは、そういいながら、再び立上って窓から首を突出した。
 今度は気が落ちついているので、あえて望遠鏡の力を借りずとも、霊峰ヘルナー山頂の白雪を噛んで巨船が横たわっているのが、はっきりと肉眼で確められた。一体どうしたというわけだろうか、海を渡るべきはずの汽船が山を登ったというのは……。
 この解答は、ドレゴの一切の智力をもってしても出てこなかった。彼はいまいましくてならなかった。でも、かかる奇怪極まる謎を即座に解き得る者は、この世の中に誰一人としていないであろうと思い、彼は自己嫌悪の気持を稍《やや》取戻した。
 「答える術のない怪事件だ。だがその事実だけは誰の目にも正しくうつっているのだ。そうだ、もっと多く観察しなければならない、これから直ぐ、ヘルナー山へ登ってみることだ」
 ドレゴはガロ爺やを呼んだ。そして急いで二日分の糧食と飲物の用意を命じた。何もしらないガロは愕《おどろ》いて、
「若旦那さま、どこかへお出ましでございますか。一体いずれへ……」
 と尋ねたが、ドレゴはそれには応えず、命じたものを急いでここへ持って来るように命じた。それはサンドウィッチ、ビスケット、チーズ、塩肉、野菜スープの缶詰、それから数種の飲物だった。ガロはいいつけられたものを地下物置から取出すと、大きな盆の上に山盛にして、ドレゴの部屋へ持って来た。
「若旦那さま。持参いたしました。これでよろしゅうございますか」
「うん、待てよ、忘れものがあってはたいへんだ」
 登山の身支度半ばのドレゴは、ガロの持っている盆のまわりをまわって必要品を調べる。ガロはドレゴの登山服に目を留め、
「若旦那さま、ヘルナー山にお登りかと存じますが、御承知のとおり只今の気候は登山によろしくございませんで……」
「爺や、危険を顧みている隙《ひま》はないのだよ。切迫した事情があるんだ。そしてそれは僕を一躍世界の寵児にしてくれるかもしれないのだ。お前が僕だったら、こんな千載一遇の機会をのがすかね」
「はい。それは……しかし一体あの雪崩《なだれ》の峰に如何たる幸運が隠されているのでございますか。爺やは合点が参りませぬ」
「お前だって、一目見れば分るよ。窓のところへ行ってヘルナーの峰を見てごらん。疑問はたちどころに氷解するだろう」
「何と仰《おお》せられます」
 爺やは窓のところへ歩みよったがそのときドレゴは、爺やに盆を下に置いてからそうするよう注意すべきだった。気のついたときは遅かった。霊峰へ目をやった爺やは、ああああっと長い叫び声を発すると、その場に卒倒してしまった。糧食の盆は大きな音と共に彼の手を放れて床の上に落ち、あたりへ大事なものを撒きちらし、転がせてしまった。
 ドレゴは漸くにして身支度を整えて、家の前に待っている自動車に乗込んだ。彼はハンドルを山とは反対の方へ切って、町の中を降り出した。こういうときには絶対に協力者が必要だ。一人では成功することが覚束《おぼつか》ない。ドレゴは、最も信用している有能な通信員の水戸を誘うことを忘れなかった。

  承前・登山事件

 さすがの水戸も、いきなり門口から飛び込んで来たドレゴから、あと十分間に登山の用意をして車の中に乗り込めと命令同様にいわれた時には、何のことやら訳が分らず、しばらくは友の顔を穴のあくほど眺めるだけであった。
「水戸、そうしてぼんやりしている一分間というものが、全世界にとって如何に尊い浪費であるか、今に分るだろう。さあ、すぐ仕度に取《と》り懸《かか》るんだ、早くしろ水戸」
「ドレゴよ。何故……」
「それは車の中で詳しく話をするよ。前代未聞の大事件発生だ」
「なに、前代未聞の大事件」
「そうだとも。そうしてわれわれは、一生涯の中に、二度とない機会を与えられているんだ。いや、君のように泰然と構えていては、その絶好の機会も掌の中からどんどん逃げ出しそうだ。早くせんか、この黄色い南瓜《かぼちゃ》の君よ」
「これは済まぬことをした。待っていてくれ、急いで支度をするから……」
 水戸は何事とも知らないが、やっと事態の重大性を呑み込めたと見え、それからは室内をこま鼠のようにくるくる走りまわって登山の支度に取り懸った。
「食糧はある。君の大切にしている君の国の酒の壜だけは忘れないように」
「おう、合点《がてん》だ」
 猶予時間《ゆうよじかん》を十分間まで使わないで水戸はドレゴの操縦する車の中へ乗りこんで、彼と肩を並べた。車は走りだした。こんどは猛烈な速度で、ヘルナーの登山道をどんどん飛ばした。何にも知らない漁師や農夫が、危くはねとばされそうになって、車のあとへ呪いの言葉を投げつけた。
「一体どうしたのか。前代未聞の大事件というのは……」
 水戸はドレゴの脇腹《わきばら》を小突《こづ》いた。
「おお、そのことだ。言葉で説明する前に、まず君の目で見て貰った方がいいだろう。ヘルナーの頂《いただき》に注意して見給え」
「なに、ヘルナーの峰を見ろというのか」
 水戸は、きっとなって、顔を風よけの硝子《ガラス》の方へ近づけると、首をねじ曲げてヘルナーの峰を探した。
「ここらの連中と来たら呑気《のんき》すぎるよ。僕が発見してからもうかれこれ三十分になるのに、誰も気がついていないのだから……」
「おう、あれか」と水戸の声は慄《ふる》えた。
「なるほど不思議だ。雪のあるヘルナーの峰が盛んにもえている……」
 そういった水戸の言葉を、今度は逆にドレゴが愕く番となった。
「なに、ヘルナーの峰が燃えているって。そんなはずはない」
「そんなはずはないといっても、確かに燃えているよ。炎々たる火焔が空を焦がしている」
「え、それは本当か」
 ドレゴはさっと顔色をかえて、車を停めた。そして扉をあけて下へ立った。
 おお、なるほどヘルナー山頂は火焔と煙に包まれていた。例の汽船の姿はその煙の中に殆んど没入していた。さっきまでは煙一筋もあがっていなかったのに、これはどうしたことであろうか。
 友はしきりに感歎の声を漏らしていた。そして滅多に興奮しない彼が日頃にもなく顔を赤く染めて、激しい間投詞[#「間投詞」は底本では「感投詞」、14−上段−1]を口にした。
「これが僕の知っていることすべてだよ。後は、すっかり君の知識と同一さ」
 ドレゴは言葉の終りをそう結んだ。
 しかし正確にいうと、彼のこの言葉は完全だとはいい切れなかった。なぜならば彼はもう一つ水戸に語るべき事柄を忘れたのであった。尤《もっと》もそのときドレゴ自身が、その事柄をすっかり忘却していたのだから、彼を責める訳にも行かないだろう。それは、昨夜ドレゴが熟睡中、彼の寝室における異様な物音によって目覚めたという一事であった。この事柄こそ、事件判定の有力なる手懸りの一つであるわけだが、ドレゴはそれから程経つまでこの重要な事項を忘れていたのである。
 現場は惨憺[#「惨憺」は底本では「惨怛」、14−上段−15]たるものであった、荒涼目をそむけたいものがあった。
 巨船は人を莫迦《ばか》にしたように山頂に横たわり、そしてあいかわらず燃えさかっていた。
 町中の人が、皆戸外に立って、燃えさかる山頂を恐怖の面持で見守っていた。今や事件は、この町中にすっかり知れ亙ったのである。

  到着

 ドレゴと水戸が、やっぱり一番乗りだった。ヘルナー山に登るには相当の用意が必要だったので、誰でも直ぐ駆けあがるというわけに行かなかった。
 また自動車をこんなに速く山麓へ飛ばす芸も、この呑気《のんき》な町の人々には真似の出来ることではなかった。
 それでも両人が現場に辿りつくまでには、かなりの時間がかかった。両人は全力をあげて能率的に互いを助け合ったつもりだったが、現場についたのは、もう夕刻であった。
 その長い忍耐苦難の連続の道程に、ドレゴは彼の事件発見の顛末の一切を水戸に語って聞かせたのであった。そしてドレゴと水戸の両人は、船体から約二十|米《メートル》以内に近づくことを許されなかった。もしそれを犯そうとすると、熱気のために気が遠くなるばかりであった。
「残念だなあ。一番乗りはしたけれど……」
 とドレゴは口惜しそうな声を出した。
「まあ我慢するさ。それより早いところ第一報を出そうではないか」
 水戸はそういって、リュックの中から携帯用の超短波送受信機を取出して組立始めた。ドレゴはぎょッとした。そうだ、自分は非常に大きい不用意をやってのけたのであった。新聞記者でありながら、この山頂からの通信をどうするかを考えなかったのだ。いつもの調子で町から容易に通信が出来るように思っていた。そこへ行くと水戸は咄嗟《とっさ》[#「咄嗟」は底本では「咄差」、15−上段−7]の場合にも用意周到だ。やっぱり、よかった。協力者として水戸を誘ってよかったのだ。もしドレゴ自身ひとりで出懸けて来ようものなら、通信機を持たぬ彼は今頃|地団太《じだんだ》踏んで口惜涙《くやしなみだ》に暮れていたことであろう。
「あの汽船の名前だけでも知りたいものだ。ドレゴ君、見て来てくれないか」
 水戸は通信機の組立の手を休めないで、そういった。
「よし、見て来よう」
「それからこの事件の名称だ。ドレゴ君は名誉あるこの事件の発見者だから、君がいい名称を択ぶんだよ」
「うん、すばらしい名称を考え出すよ」
 ドレゴは、すっかり機嫌を直して、燃える巨船の船尾の方へ駆け出して行った。
 煙が、意地悪く船尾の方へなびいているので、そこについているはずの船名は、そのままで読みとれなかった。これには困ってしまった。
 が、彼はこのままで引下がることは出来なかった。何かよい工夫はないかと、頭脳を絞ってみたが、不図《ふと》思付いて、彼はすこし後退すると雪塊を掘っては岩陰へ搬《はこ》んだ。そしてかなり溜った上で、今度はそれを掴《つか》んで矢つぎ早に船尾を蔽う煙に向って投げつけた。
 これは思い懸けなくいい方法だった。煙はこの雪礫《ゆきつぶて》に遭って、動揺を始め、或る箇所では薄れた。それに力を得て、ドレゴは更にその方法をつづけ、そして遂に朧《おぼろ》なる船名を判定することに成功したのであった。
 ゼムリヤ号。
 これがこの怪しき巨船の名であった。一体どこの国の船であろうか。それを知りたいと思って、なおもしばらく雪礫で煙を払ってみたが、それは成功しなかった。船腹には国籍の文字もなく、船旗も信号旗も悉く焼け落ちていたからである。
 それからこの事件の名称だ。
 ドレゴは、水戸の待っている場所まで戻る間に、この事件のためにすばらしい名称を思付くことを祈念した。そしてその結果、不図《ふと》一つの驚異的な名称を思付いたのである。
「巨船ゼムリヤ号発狂事件」
 この名称では少々奇抜すぎるかなと思った。しかし後々になってこの事件の内容がだんだん明白になるにつれ、最初にドレゴが考えたこの奇抜
前へ 次へ
全19ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング