るのはまだ早い。海底で異常地震に遭遇したときは、かねての注意に基き、わしからの信号により行動するように。冷静を失うと結局いいことはないから、どうかそのつもりでいて貰いたい」
博士の非常警報が出たときに限り、全員は応急浮揚器の紐を引いて、海底に[#ママ、「海上に」又は「海底から」?、47−上段−22]浮かびあがる手筈になっていた。それ以外は、どんなに不安に怯《おび》えるとも、博士を信頼して頑張ることになっていた。
ホーテンスも水戸も、列の最後尾に並んで共に元気だった。
「おい水戸君。昨日D十五号だけがあのとおりひどくやられて他の艦船[#「艦船」は底本では「艦舟」、47−下段−5]が大した損害を受けなかったことを君は不思議に思わんかね」
ホーテンスは、闘志満々たるところを示して、この期になお同業者と討論を持ちかける。
「不思議は不思議さ。およそ何もかも不思議なんだ。だがその不思議と映る現象――その事件そのものを素直に受取るより外ないね」
「ははは。そこで君の持説“地球発狂事件”かね」
「そうなんだ。それはとにかくD十五号事件によって、あの驚異の力には方向性があるといえると思うんだ」
「方向性だって」
「そうだ。方向性があればこそ、D十五号だけがあのような大破壊を受け附近にいた水上艦艇も水中にいた潜水艦も共に惨害から免れたのだと思う。だからわれわれが水中であの種の驚異力の発生を感付いたら、すぐに物蔭に寝るといいと思うね。水中では波動速度がのろいから、きっとそれでも間に合うと思うよ」
「なるほど。それはいい考えだ、覚えておこう」
ホーテンスは水戸の説に興味を覚えた、しかし真逆《まさか》そのことが間もなく本当に水中に於て試《ため》されようとは神ならぬ身の知る由もなかった。そうと感づいていたら彼はもっと多くのことを水戸に質問したであろう。
午前十一時、遂に潜水が開始された。
サンキス号の左舷には十本の鋼鉄ロープが吊下げられた。その先は海面にたれていたが、それぞれ一体の潜水服に潜水兜をつけたグロテスクな人間をぶら下げていた。
まずワーナー博士が、一番舳に近いロープによって、海面に沈んでいった。そのあとから夥しい泡が湧き上って、甲板から見守っている人々に、何か息苦しさに似た感じを与えた。
第二番、第三番と順に進んで第九番のホーテンス、第十番の水戸が海面下に姿を消したのはそれから二十分後のことだった。甲板の連絡班長のいうところによれば、ワーナー博士外三名は、早くも海底に着き、ロープから離れて海底歩行を始めたそうである。水深百二十メートル、果たして博士一行は如何なるものを、暗黒の大海底において発見するであろうか。
花束の待人
この事件が起こって以来ずっと一緒に手をとって来た親友水戸記者を大西洋に置去り、自分ひとりアイスランドへ帰っていくドレゴの気持ちは、さすがに晴れなかった。
彼は北へ走りだした快速貨物船の甲板に立って、小さくなり行くワーナー調査隊の船団の姿を永いこと見送っていた。やがてその船団は水平線の彼方に没し、檣《マスト》だけがしばらく見えていたが、遂にそれも波間に見えなくなった[#「見えなくなった」は底本では「見えずなった」、48−下段−9]。ドレゴは溜息と共に甲板を去り、サロンに入って酒を注文した。
それから彼は呑みつづけた。昼も夜もアルコールの漬物みたいになって、ひとりでわけのわからぬことを口走っていた。彼は水戸をどうしてあそこへ置去りにしたのか、それについて良心が咎《とが》めて仕方がなかった。そして、親友水戸の上に何か恐ろしい魔物の爪がのびかかっているように思えてならなかった。彼はその不吉な幻影を追払おうとして益々盃の度を重ねていった。
さすがに酒に強い彼も、その日の深更に至って遂に倒れ、ボーイたちによって船室へかつぎこまれた。泥のような熟睡に、彼は一切を知らないで約半日を過ごした。
彼が目を覚まして、甲板へ出て来たのは、翌日の正午に近かった。
海の色も空の模様も、もうすっかり様子が変わり、西北の季節風が氷のような冷たさを含んで船橋のあたりから吹き下ろしてくるのだった。彼はぶるぶると慄《ふる》えて、上衣の襟を立てた。
昼食のとき、彼は船長の卓子《テーブル》に席を用意されたので、我意を得たという顔をした。
「船長。昨日以来、ワーナー調査団から何か新しい情報は入らなかったですかね」
早速彼は、気にかかっていたことの質問を出した。
「詳しい情報は何も入らないですよ」
と船長はちらりとドレゴの顔へ視線を走らせて応えた。
「すると、昨日から始めた海底調査の結果なんか、何もいって来ませんかね」
「ええ、たいして詳しいことも」
「あれはうまく行っているんでしょうか」
「さあ……」船長は、ちょっと苦しそうな表情になって
「なかなか面倒らしいですね。昨日の午後になって本国へ航空隊の来援を打電していたようですよ」
「航空隊の来援を……。すると何か重大な[#底本は「重大に」、49−下段−1]発見でもあったのかな」
ドレゴ記者は、商売がら、そういう方へ航空隊来援要請を解釈した。それに対して船長は何も応えず、料理へフォークを使うのに熱中しているように見えた。
もしもドレゴが、今船長の口を滑らせたことについて正確な解釈をすることが出来たら、彼は食事も何も放り出して、早速南方へ向かう飛行機の提供方を、船長に交渉したことであろうに。
船長は、或る出来事について沈黙を守っていなければならぬ義務があったのだ。尤《もっと》も船長自身もそれについて詳しい顛末《てんまつ》は知らなかった。ただ、或る重大な事件が昨日来、ワーナー調査団に発生して目下極力善後措置に努力中だとは知っていたが……。
食事の途中で、この船が午後三時にオルタ港へ入る予定であることが発表された。
そうなると、ドレゴの胸は怪しく鳴りだした。いよいよオルタへ入るのだ。彼を待っている「崇拝者」と顔を合わすことになるのだ。その「崇拝者」は二度に亙って、彼に対して帰国をすすめた。そして埠頭に花束を持って彼を迎えるであろうと約束した女性にはちがいないと思う。一体、誰であろうか。オルタの町に、美人は多い。彼女はその中の誰であろうか。ドレゴは、かねて彼の胸に灼《や》けついた若い女性たちの顔を丹念に一人づつ思い出してみては、首をかしげるのであった。
酒場「青い靴」のスザンナであろうか。それとも「極光」のペペであろうか。いや、それでなくもっと高貴な婦人、たとえばプルスカヤ伯爵夫人か、公爵令嬢マリア・ムルマンクか。さっぱり見当がつかないなあ。
それからそれへと、いくら思い出してみてもこれならばという自信の湧き出る美しい女性を探し当てることはできなかった。ドレゴははげしく昂進してくる自分の心臓に気がつき、吃驚《びっくり》して胸を抑えた。
解決のつかないままに、船はオルタ港口を入ってしまった。
ドレゴは、長いオーバーの胸にアスパラガスの小さい枝を挿し遊歩甲板に立って、全身の注意力を埠頭の方へ向けた。彼の眼にはパアサーから借りた六倍の双眼鏡があてられていた。
船が大きく曲線航跡を描いて七面鳥桟橋へ横付けになる用意の姿勢に移った。埠頭に群れ集まる数百人の男女の群が、はっきりと双眼鏡の奥に吸い込まれた、いろんな顔が重なっている、ドレゴは、早鐘のように打ちだした自分の心臓を気にしながら、美しい若い女性の顔を探し始めた、花束をその顔と一緒に並べているところの……。
「これはたいへんだ」
ドレゴは呻《うな》った、というわけは花束を抱えている若い女性の数があまりにも多かったから、誰も彼も、美人という美人は花束を持っていたのだ。ドレゴは勇気を鼓して、その美しい顔を丹念に拾っていった。だがどれ一つとして、自分の心当たりのそれがなかった、何遍くりかえして見ても、同じだった。
「ふむ、すばらしいぞ。これは、新しいロマンスの開幕だ」
この夥しい女性のどれが、自分の胸に香りのいい頭髪を押しつけるであろうか、そう思うと、彼は船を乗り越えてざんぶりと海中に飛入り、桟橋までクロオルで泳ぎつきたい衝動に駆られた。
ところが、いよいよ船が桟橋について、彼が舷梯を駆下り、花束美人の真只中へ突入してみたところ、意外にも誰一人として彼の胸に花束を持って飛びついてくる女性がいなかったのである。彼はがっかりした。彼は十五分間に、ねたましいほど仲のいい恋人の何十組かを見送って、すっかり気を悪くし、そして疲れてしまった。仕方なく海岸通りの方へ少し歩き出したとき、突然彼の名前が呼ばれ、彼の目の前に飛び出してきた女があった。
早合点
「おお、エミリー……」
ドレゴの前へ飛び出してきた女は、チョコレート色の長いオーバに大きなお尻を包み、深緑のスカーフに血色のいい太い頸を巻いた丸々と肥えた年増のアイスランド女だった。彼女はサンノム老人の姪で、水戸なんかの泊っている下宿屋で働いていて、主人のサンノム老人を助けていたのだ。
「エミリー、君か。まさかね」
ドレゴは呆気《あっけ》にとられて、エミリーの丸い顔を見詰めた。エミリーではないだろう、彼の崇拝者というのは。その証拠に彼女は花束を持っていない、しからば希望は残っているぞ。
だが、年増女のエミリーは、俄かに口がきけないらしく唇をぶるぶる慄《ふる》わせながら後に隠していた花束を前に出した。ドレゴはあっと声をのんだ。
エミリーの手には、二つの花束があった。二つのうち、紅い花の数が少ないほうの花束を、ドレゴに手渡しながら始めて口をきいた。
「ドレゴ様、おひとりなんですか。水戸――水戸さんはどうしましたか……」
そういわれてドレゴは、釣りあげられた鯉のように「ああ……ああ……」と口を大きく開いて喘《あえ》いだ。訳は分ったのだ。エミリーの待ちこがれていたのはドレゴにあらずして、実はもう一つの紅い花がたくさん挿してある花束を捧げる筈の人物の方にあったのだ。――「すると、僕の方はまだ別の美人に希望を持っていいのかな」と、ドレゴは往生際《おうじょうぎわ》が悪かった。それに止めを刺すかのようにエミリーが早口に喋りだした。
「あたくし、がっかりしましたわ。ドレゴ様とあろう方が、気がおききになりませんのね。あたくしの手紙をごらんになり電報をお読みになれば、あなた様が必ず水戸さんを連れて帰っていらっしゃらなければならないことは、お分りの筈じゃありませんか。あたくし――」
「まあ待ってくれ、エミリー」
ドレゴは顔に汗をかいて、首をふりたてた。
「だってそれは無理だよ。あの手紙や電報では、そんな意味には取れやしない」
「そんなこと、ございませんわ。あなた様は水戸さんの唯一無二の御親友で……」
「唯一無二の親友であっても、そこまでは気がつきやしないそうだよ、ね。第一その手紙には、“あなたの崇拝者より”としてあるから、僕はてっきり僕の崇拝者が僕を呼んでいるんだと思った。このことは、はっきり分かるだろう、え」
「だって……」
「だっても何もないよ。僕の崇拝者でもないくせに、なぜ僕宛に“あなたの崇拝者より”なんて書いて寄越すんだい」
「あたくしは、あなた様も大いに崇拝いたしておりますわ」
「えっ、それはややこしいね」
「――だってあなたさまは愛する水戸の唯一無二の親友でいらっしゃいますものね」
「たははは……」
ドレゴはここで完全にエミリーから引導《いんどう》を渡されてしまった。彼はまといつくエミリーを汗だくだくで振り切って、すたこら自分の邸へ逃げ帰った。
もちろん彼はそれからバッカスの俘囚《ふしゅう》となって、前後を忘却するほどの泥酔に陥った、が翌朝早く彼は自分の寝台にぱっと目を覚ました。そんなに早く彼が酔後の熟眠から目覚めることは従来の習慣上なかったのであるが、その朝は不思議に目がぱっちりと開いた。何者かが、彼の本性に警報を発したからに違いない。
彼は起き上がって暖炉の前に腰を下ろすと、下紐を引いて人を呼んだ。
ガロ爺やは坊ちゃま御帰邸のよろこびを懸命に怺《こら》
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