この三平が薦《すす》めたものであって、どういうわけかサンノム老人を贔屓《ひいき》にしていた。
 この家における目下の下宿人は、水戸の外《ほか》に、音楽家の高田圭介と音羽子の夫妻があり、それからソ連の商人でケノフスキーという人物も滞在していた。
 水戸の計画した晩餐会は大成功であった。ドレゴが喜んだことは勿論のこと、ホーテンスもいつになくよく喋《しゃべ》った。三人の間には、盛んにコップの触れ合う儀礼が交換され、空《から》になった酒壜は殖えていった。ホーテンスはこの土地の名産であるところの一種の鱒《ます》の燻製《くんせい》をたいへんに褒めて食べた。
 すっかりいい気持ちになったところで、話題は例の巨船ゼムリヤ号の発狂事件に入っていた。
 水戸は、ドレゴがホーテンスが調査したことの詳細を知りたがっていると述べると、ホーテンスは、
「よろしい、ではこの好ましき仲間のためにもう一度それを述べよう、今日握った新しい事実も加えて……」
 といって気軽に語り出した。

  新鋭砕氷船

「水戸君には話しておいたことだが、あの怪汽船ゼムリヤ号はソ連船なんだ」
 と、ホーテンスは語り出してドレゴの顔を見た。ドレゴは血色のいい顔で肯いて、それは聞いて知っていると応えた。
「ほう、知っているんだね。よろしい、ではそれから先の資料だ。水戸君も愕くことがある筈だ、なぜといってこのゼムリヤ号は、調べれば調べるほど、なかなか興味ぶかい船だからね」
 水戸が酒壜を持ってホーテンスの盃に琥珀色《こはくいろ》の液体を注ぎそえた。
「有難う。まず君達を喜ばせるだろうと思うことは、あのゼムリヤ号は最新鋭の砕氷船《さいひょうせん》だということだ」
「砕氷船! そうか、砕氷船か」
 聞き手の両人は、目を瞠《みは》った。
「それも並々ならぬ[#「ならぬ」は底本では「ならね」、21−下段−17]新機軸を持った砕氷船なんだ。この船は、外部から氷に押されるとだんだん縮むのだ。船の幅で六十パアセントに圧縮されても沈みも壊れもしないで平気でいられるという凄い耐圧力を持った砕氷船なんだ。こんな新機構の船が今までに考えられたことを聞かないね」
「ふうん、凄い耐圧力だ。それだけの圧縮に平気なら、氷原でも何でもどんどん乗り切って行くだろう」
 と、ドレゴは羨《うらやま》しそうな顔をする。
「で、そういう事実を、君はどこで発見したのかね、ホーテンス君」
 訊《き》いたのは水戸だった。
「そのことだ。僕は、怪船ゼムリヤ号の身許を知ることが、この事件の解決の近道だと思ったので、早速《さっそく》本社へ指令して、ありとあらゆる船舶関係の刊行物を調べさせた。ところがゼムリヤ号の名はどこにも見当らないと報告があった。僕は失望した。しかし、同時に別の勇気が奮い起った。それはつまり、ゼムリヤ号がいよいよ怪船らしく見えてきたからだ。だが、それだけではどうにも出来ぬ。何としてもゼムリヤ号の正体を探し当てなければならぬ。この上はどうしたらいいだろうかと思い、このオルタの港を眺めていると、そこへ入港して来た一隻の汽船がある。それはソ連船レマン号だった。僕はその船を見た瞬間一種の霊感に触れた。そこで飛ぶようにして一隻のモーターボートを傭い、そのレマン号へ乗りつけたのだ。それから、船長に要件を申し入れた。船長のポーニフ氏は愕いていたね。しかし彼はゼムリヤ号なんて聞いたことがない名前だといった。それは嘘だとは思われない。僕はまた失望したが、それなれば、新着の船舶関係の刊行物を見せて下さいと頼んで、サロンで新聞や雑誌類を見せて貰った。ところが、その中に只《ただ》一冊、当のゼムリヤ号の記事を掲げている雑誌につきあたったんだ。その雑誌はヤクーツク造船学会誌の最近号たる六月号だ。その雑誌の一隅に、新鋭砕氷船ゼムリヤ号のことが小さい活字で紹介してあったのさ。もしこの雑誌を調べ洩《も》[#底本ルビは「もら」、22−下段−10]らしていたとしたら、ゼムリヤ号の正体は今以て不明だったろう。いや、実にきわどいところだったよ」
 そういってホーテンスは大きな溜息をつき、ぐっと一ぱい酒をあおった。
「努力が酬いられたのだ。神は常に見て居給《いたも》う。そして正しき者へ幸運を垂れ給う」
 水戸が誰にいうともなく呟《つぶや》いた。
「その雑誌の中に、今君がいったゼムリヤ号は六十パアセントの圧縮に耐えると記されていたのかね」
「そのとおりだよ、ドレゴ君。君もゼムリヤ号の特殊構造には興味を感じるだろう」
「全く、大いに感じる。第一、そういう凄い耐圧力を持たせるには普通の鋼材では駄目だね。何という材料かなあ」
「そのことは雑誌に少しも記されていない。だが我々は近き将来において、その材料のことや構造のことをはっきり知ることができるだろう。焼け落ちたとはいえ、その資料はヘルナー山頂に横たわり、今も我々の監視下にあるんだからね」
 ホーテンスとドレゴは、新鋭砕氷船の特質につき大きな興味を沸かしているのだった。
「一体砕氷船というものは、そんなに強い耐圧構造を持っていなければならないものかね」
 水戸が、疑問をなげかけた。
「さあ、それは強ければ強いほどいいだろうが、それにしても少し大袈裟《おおげさ》すぎるな。僕なら、そんな莫迦《ばか》げた耐圧力を持った砕氷船なんか作りやしないよ」
 と、ドレゴが、寒帯住人らしい自信を持っていい切った。が、ホーテンスが、別の見解を陳《の》べた。
「だがねえ、仮にゼムリヤ号のような砕氷船が百隻揃って北氷洋や南氷洋に出動したと考えて見給え。そうなると極寒の海に俄然常春が訪れるじゃないか、漁業や交通やその他いろいろの事業に関して……」
「ほう、これは面白い想定だ。ううむ、そして実現性もある」
「だが、僕はそう思わないね。ゼムリヤ号があのような強い耐圧力を持っている理由はもっと外にあるような気がするよ」
「というと、どういう意味かね、ドレゴ君」
「それは……」といいかけたドレゴは、後の言葉を咽喉《のど》の奥にのみこんだ。そして彼は視線をホーテンスの顔から逸《そ》らせた。
 ホーテンスは、ドレゴの意見を聞きたがった。が、ドレゴは、
「いや、もう少し慎重に考えてから、喋《しゃべ》ることにするよ」
 と、いつになく尻込みをして、煙草の煙をやけにふかすのであった。水戸はちょっと心配になった。ドレゴのそういう態度が、折角今夜この招待に応じたホーテンスの気持をここで悪化させないかを虞《おそ》れたのである。だが、ホーテンスの明るい顔色は聊《いささ》かも変らなかったばかりか、彼は更にゼムリヤ号に関する未発表の調査事項までを、ドレゴと水戸の前にぶちまけたのである。

  証拠の手斧

「話はまだその先があるんだよ、君たち」とホーテンスは煙草に火をつけ、「さっきから述べてきたゼムリヤ号の正体を僕が発見して本社へ報告したところそれから間もなくゼムリヤ号の行動についての愕《おどろ》くべき詳細なる報告に接した。いいかね」
 とホーテンスは腕組みをして、二人の同業者の顔を見渡し、
「……事件の日から三週間前のことだが、ゼムリヤ号に相違ないと思われる汽船が、フィンランドの北岸ベチェンカ港外に現われたことが分ったのだ。ゼムリヤ号は沖合に碇泊し、港内へは入らなかったが、傭船を以て給水を受けた。そして三時間後には愴惶《そうこう》として抜錨《ばつびょう》し北極海へ取って返した。どうだ、面白い話ではないか」
「ふうん。一つの有力なる手懸《てがか》りだ」
「ところがさ、ゼムリヤ号の消息は、それっきり知られていないのだ。つまり事件の発生した日までの三週間に亙る行動は全く不明なんだ。そこでこういう説が行われている。ゼムリヤ号は、或る予期せざる椿事《ちんじ》のため、或る巨大なる力を受けて北極海から天空に吹きあげられ、そして遂にこのアイスランドのヘルナー山頂へ墜落したのだろう。勿論この推定は漠《ばく》たるもので、何等確実なる証拠がないが、常識からいって、そう考えられるという程度に過ぎないが……」
「僕はそうは思わない」ドレゴが途中で口を挿んだ。
「ゼムリヤ号が北極海からこのアイスランドへ飛来したという説は、全く事実に反するものだ」
「なに、事実に反するって。それは面白い。君は早速それについて説明をしてくれるだろうね」
 今度はホーテンスが聴き手に廻る。
「ああ、是非聴いて貰いたいね。つまりこうなんだ。僕の結論を先にいえば、ゼ号は南方からこの島へ飛来したのだと思う。いいかね、南方からだ。君のいうように北方からではない。そしてそれには歴然たる証拠がある」
「ほう、全く正反対の説だ。で、その歴然たる証拠とはどんな事だ。そしてその証拠はどこにあるのかね」
「その歴然たる証拠物件は、何を隠そう、実は吾輩の寝室にあるんだよ。はっはっはっ」
 ドレゴはそういい切って呵々大笑《かかたいしょう》した。
「なに、君の寝室に……」
 ホーテンスは目を丸くした。
「そうなんだ。事件の当夜、あの事件の発見に先立つこと数時間前、水戸も知っているとおり僕はあの夜泥酔していて漸《ようや》く自分の寝台に登ったわけだが、忽《たちま》ち深い眠りに落込んだ。ところがその深い眠りを突然覚ますような事件が起ったんだ。ガーンとでかい物音が眠りを破った。それは寝室の北側の壁のあたりから発したように思った。僕はその物音に一旦目を覚ましたものの、音は一度きりだったので、又眠ってしまった。そして夜が明けた。僕はふとぼんやりした記憶に呼び戻されて、目を北側の壁へやったところが、愕《おどろ》いたね、そのときは……。なぜってそこに懸けてあった額縁が上下に真二つに割れ、壁にはその上半分だけが残ってぶら下っているんだ。それから僕は目を壁伝いに下に移した。床の上に、額縁の破片と一緒に、見慣れない手斧が落ちていた。その手斧は柄の一部が折れていたが、その上には明らかに、ゼムリヤ号の船名が彫りつけてあった。聞いているかね」
「聞いているとも。実に素晴らしい話だ。先を続けてくれたまえ」
 ホーテンスも前へ乗り出して来た。
「それから僕は、この手斧がどこから部屋の中へ飛込んだかを確かめようと思ったさ。それは苦もなく分った。何故って、寝台の南側の窓のカーテンが一個所大きく、引き裂かれていたではないか。疑いもなくゼ号の手斧は南の窓から飛込んでカーテンを裂き、それから北側の壁の額縁にぶつかったんだ」
「なるほど、なるほど……」
「その手斧は、飛びつつあったゼ号からこぼれ落ちたものに相違ない。然《しか》らば、この手斧の運動方向とゼ号の飛行方向とは同一でなければならない。そうだね。するとゼ号は空中を、いやもっと精密にいうなれば、我家の真上を南から北へ飛び過ぎたものと断定して差支《さしつか》えない。さあどうだ、これが吾輩の握っている確かな証拠さ」
 ドレゴが語り終ると、ホーテンスは昂奮のあまり椅子からとびあがると口笛を吹いた。
「ほう、素晴らしい。頗《すこぶ》る重大なる手懸りだ。すると砕氷船ゼムリヤ号は事件直前において大西洋を航行中だったんだ。そうなるとゼ号は一体そんなところで、何をやっていたのかということになる。ゼムリヤ号の行動こそ、いよいよ出でて奇々怪々じゃないか」
 と、ホーテンスは盛んに手をふりながら叫んだことである。水戸は椅子の中に深く身体を沈めて、じっと考えこんでいる。

  怪力の追求

 二人の若い記者の小晩餐があった翌日、ホーテンスはドレゴの邸宅を訪ね、彼の寝室の南のカーテンの裂けているところや壊れて真二つになった額縁や、そういう暴行を演じたゼムリヤ号の手斧などを見せて貰い、ドレゴの主張する南方飛来説が十分根拠のある訳を再確認したのであった。
「君の寝室は重大なる手懸りとして大切に保存せらるべきだ」と、ホーテンスは言葉を強めて云った。
「君の寝室はこの事件に関して僕の立てていた推定を根底から引繰り返してしまった。ゼ号は北極海からではなく大西洋方面から飛来したという事実を中心として、更に多くの資料を集めないことには、この怪事件は到底解決で
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