どうしましたか……」
 そういわれてドレゴは、釣りあげられた鯉のように「ああ……ああ……」と口を大きく開いて喘《あえ》いだ。訳は分ったのだ。エミリーの待ちこがれていたのはドレゴにあらずして、実はもう一つの紅い花がたくさん挿してある花束を捧げる筈の人物の方にあったのだ。――「すると、僕の方はまだ別の美人に希望を持っていいのかな」と、ドレゴは往生際《おうじょうぎわ》が悪かった。それに止めを刺すかのようにエミリーが早口に喋りだした。
「あたくし、がっかりしましたわ。ドレゴ様とあろう方が、気がおききになりませんのね。あたくしの手紙をごらんになり電報をお読みになれば、あなた様が必ず水戸さんを連れて帰っていらっしゃらなければならないことは、お分りの筈じゃありませんか。あたくし――」
「まあ待ってくれ、エミリー」
 ドレゴは顔に汗をかいて、首をふりたてた。
「だってそれは無理だよ。あの手紙や電報では、そんな意味には取れやしない」
「そんなこと、ございませんわ。あなた様は水戸さんの唯一無二の御親友で……」
「唯一無二の親友であっても、そこまでは気がつきやしないそうだよ、ね。第一その手紙には、“あなたの崇拝者より”としてあるから、僕はてっきり僕の崇拝者が僕を呼んでいるんだと思った。このことは、はっきり分かるだろう、え」
「だって……」
「だっても何もないよ。僕の崇拝者でもないくせに、なぜ僕宛に“あなたの崇拝者より”なんて書いて寄越すんだい」
「あたくしは、あなた様も大いに崇拝いたしておりますわ」
「えっ、それはややこしいね」
「――だってあなたさまは愛する水戸の唯一無二の親友でいらっしゃいますものね」
「たははは……」
 ドレゴはここで完全にエミリーから引導《いんどう》を渡されてしまった。彼はまといつくエミリーを汗だくだくで振り切って、すたこら自分の邸へ逃げ帰った。
 もちろん彼はそれからバッカスの俘囚《ふしゅう》となって、前後を忘却するほどの泥酔に陥った、が翌朝早く彼は自分の寝台にぱっと目を覚ました。そんなに早く彼が酔後の熟眠から目覚めることは従来の習慣上なかったのであるが、その朝は不思議に目がぱっちりと開いた。何者かが、彼の本性に警報を発したからに違いない。
 彼は起き上がって暖炉の前に腰を下ろすと、下紐を引いて人を呼んだ。
 ガロ爺やは坊ちゃま御帰邸のよろこびを懸命に怺《こら》えているという顔でドレゴの前へ立った。
「浴槽を用意して貰おう」
「はい。もう用意ができておりますでございます」
「ふん。――何か変わったことはないか、早く僕に報告しなければならない性質のもので……」
「はい、ございます、昨日午後四時より始まりまして、サンノム家のエミリー嬢が坊ちゃま……おほん、若旦那様に至急の御用があるとかで六回もお見えになりましてございます」
「困ったねえ、あの女には」
「……」
「今朝は、まだ来ないか」
「はい、まだお見えになりませんよ」
「やれやれ、早いところ風呂へ入って、ずらかるかな」
 ドレゴが、大理石の浴槽につかってとろんとしているとき、ガロ爺やがやって来て、エミリーの来訪を伝えた。
「まだお目ざめではないと申し上げては置きましたが……」
「いや会おう……昨日僕は頓馬だった、たとえエミリーがどう思っていようと、僕はゼムリヤ号事件の名誉ある発見者として、その最新情報を集め、その核心へ、突進しなければならないのだ」
 ドレゴかひとりごとをいっているとき、浴槽の入り口が開いて女の首が中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。

  商人ケノフスキー

「あっ、エミリー……」
 浴槽の中で、裸のドレゴは硬くなって叫んだ。傍に立っていたガロ爺やは、電気に懸ったようにその場にとびあがり、浴室の入口へ走った。
「こ、困りますね。広間でお待ち願うよう申上げたつもりでございますに……」
「一秒を争うことなんです。ドレゴさんにすぐお目にかからねばなりません」
 牝牛のように身体の大きなエミリーは戸口に立ちはだかる枯木のようなガロ爺やをぐんぐん押し戻して、浴槽の傍まで入ってきた。
「エミリー。お願いだからあと二分間、部屋の外で待っていておくれ」と、さすがの心臓男ドレゴも、エミリーの剣幕《けんまく》におそれをなして、赤ん坊のように悲鳴をあげた。
「ところがたいへんなのよ。ケノフスキーが飛行機で行っちまうんです」
「ケノフスキー?」
「そうなの。うちに下宿しているケノフスキーです。ゼムリヤ号に関しては、あの人が一番謎を知っているんです。そしてそれに関する取引も、あの人だけが握っているんです」
 ドレゴは浴槽の中で、石鹸の泡をかきたてることも忘れて、「へえっ」とおどろいてしまった。ケノフスキーが水戸と同じくサンノム老人の下宿にいることは勿論知っていた。彼はソ連の商人として知ら
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