度もやった。そして頭髪に爽快なローションをふりかけ、ブラッシュでぎゅうぎゅうとかきあげた。そして最後の仕上げをチックと櫛に托して、漸く鏡の中にこれなら見られる自分の顔を取戻したのであった。
彼は長大息した。こびりついて放れそうもなかった悪夢が、あらかた彼の身体から出ていったように思った。いやまだ悪夢の断片がまだどこか、この化粧室に残っているような気がする。
彼は周章《あわ》てて化粧室をとび出した。そして元の寝室へ戻った。そして南向きの窓のあるところへいっていっぱいにレースのカーテンをひろげた。
午前四時のすがすがしい空気が、ヘルナー山の方から彼の胸に向ってぶつかった。彼は目を細くして大きく呼吸をした。真夏といえども山頂に白く雪の帽子を被つているヘルナーの霊峰、そしてその山腹に残っている廃墟オルタの城塞の壁。毎朝目をさますと、きまってドレゴはこのヘルナーの霊峰とオルタの古城を仰いで宇宙万象古今へ挨拶を贈るのであった。この朝彼は不慮の負傷のため、聊《いささ》か順序をくるわしはしたが、今や新しい精進の気持ちをもって、気高い霊峰の上へ目をやったのであった。
「おお、わが霊の峰ヘルナー。永遠に汚れなくあれ、われは今……」
といいかけて、ドレゴは突然声を停めた。彼の厳《おごそ》かな態度は俄《にわか》に崩れた。彼の目には怪しい光があった。そして狼狽《ろうばい》の色が顔一杯に拡がり、そして全身へ流れていった。
「変だよ、変なものが見える、ヘルナーの峰に……」
ドレゴは、窓から半身を乗りだして、白い雪の帽子を被ったヘルナーの峰を見つめていたが、いくど目をしばたたいてみても、霊峰の上に船の形をしたようなものが見えるのだった。
「莫迦《ばか》な……」
それでも彼はまだ自分の頭を信じなかった。目を信ずるわけにいかなかった。その揚句《あげく》彼は一旦窓から半身を引っ込めた。そして再び彼の姿が窓に現れたときには、彼の手には長く伸ばした望遠鏡が握られていた。接眼鏡は左手によって彼の目に当てられた。右手は望遠鏡の先の方を窓枠にしっかりと固定した。焦点が合わせられた。彼の視野に、浅みどり[#「浅みどり」は底本では「朝みどり」、10−下段−6]の空と、白い峰の雪とが躍った。やがて彼の探らんとする物体が、レンズの中央にしっかりと像を結んだ一瞬、彼は心臓をぎゅっと握られたように愕いた。
「おお……こんな奇妙な風景があるだろうか……」
彼は見たのだ。信じられないものを霊峰の上に見たのだ。それは彼の目によって見、彼の頭脳によって判断すると、ヘルナー山の峰の雪の上を、一隻の汽船が航行しているのである、船体をやや斜めに傾けて……。
そんなことが有り得べき道理はない。海抜五千十七|米《メートル》のヘルナーの峰に、大海を渡るために作られた汽船が航行中というのはおかしい。が、いくら目をこすってみても、望遠鏡の焦点を再調整してみても、ヘルナーの山頂には少しも変わりなき異風景が見られたのである。ドレゴは遂に暈《めまい》を催《もよお》した。彼は望遠鏡を窓枠の上に置くと、そのまま窓の下にへたへたと崩れ座った。そして彼は目を両手で蔽うと、大きな声で泣き出した。それは彼自身が急に身体の調子を失して発狂したのだと思ったからであった。
登山準備
ドレゴが再び雄々しく立上ったのは、それから五分も経たない後のことだった。彼が若し自分が新聞記者であることを忘れていたとしたら、いつまでも窓の下で狂おしく泣いていたかもしれない。
「……これは特種《とくだね》だ。すばらしい、特種だぞ。いや、恐るべき大事件だ。前代未聞の怪事件だ……」
ドレゴは、そういいながら、再び立上って窓から首を突出した。
今度は気が落ちついているので、あえて望遠鏡の力を借りずとも、霊峰ヘルナー山頂の白雪を噛んで巨船が横たわっているのが、はっきりと肉眼で確められた。一体どうしたというわけだろうか、海を渡るべきはずの汽船が山を登ったというのは……。
この解答は、ドレゴの一切の智力をもってしても出てこなかった。彼はいまいましくてならなかった。でも、かかる奇怪極まる謎を即座に解き得る者は、この世の中に誰一人としていないであろうと思い、彼は自己嫌悪の気持を稍《やや》取戻した。
「答える術のない怪事件だ。だがその事実だけは誰の目にも正しくうつっているのだ。そうだ、もっと多く観察しなければならない、これから直ぐ、ヘルナー山へ登ってみることだ」
ドレゴはガロ爺やを呼んだ。そして急いで二日分の糧食と飲物の用意を命じた。何もしらないガロは愕《おどろ》いて、
「若旦那さま、どこかへお出ましでございますか。一体いずれへ……」
と尋ねたが、ドレゴはそれには応えず、命じたものを急いでここへ持って来るように命じた。それはサンドウ
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