えているらしいことを案じて彼の邸まで送って来たのである。そのときはもうドレゴは前後不覚で、彼の体重は完全に水戸の身体に移っていた。時刻は午前二時に近かったろう。夏も過ぎようとする頃で、白夜が次第に夕方と暁方との方へ追いやられ、真夜中の前後四時間ほどは有難い真黒な夜の幕に包まれ、人々に快い休息を与えていた。水戸は邸の中から爺やの出てくる間、その闇の中に友を抱えてひょろひょろしながら、黒く涼しい風を襟元にうけて、蘇《よみがえ》[#底本ルビは「よみが」、7−下段−15]ったような気持ちにひたっていた。
「ああ、これは水戸様……おや、若旦那さまを。これは恐《おそ》れ入《い》り奉《たてまつ》りました」
 ガロ爺やは、恐縮して水戸の腕から重いドレゴの身体を受取った。そのときドレゴは突然頭を獅子舞のようにふりたて、
「いや、何といっても僕はこの目で見て勘定して来たんだ。九百九十匹の悪魔が棲んでやがるんだ。……いやいや、もう一匹いたぞ。ううん違う二匹だ。悪魔め、ちょっと僕が油断している間に、九百九十……九百九十五匹かな、九十四匹かな……ううい」
 後はガロ爺やの背中でむにゃむにゃいっていたが、それもやがて聞こえなくなった。爺やは水戸に丁寧に礼を述べて玄関口を閉め、それからアルコール漬の若旦那さまを担いで馬蹄形に曲った階段をのぼり、そして彼の寝台の上にまで届けたのであった。
 ドレゴは寝台の上に大の字になって倒れると、またしても声を出して「キ、君、悪魔集団は僕たちの隙を窺っているんだぞ。油断は……」
 あとは口の中、そしてガロ爺やが戸口を閉めて部屋を出て行くときには、若旦那さまの独白は大きな鼾《いびき》に変わっていた。

  稀代の怪事

 そのままで何事もなかったなら、おそらくドレゴは昼前頃までぐっすりと眠り込んだことであろう。
 ところがドレゴは思い懸けない出来事のため、それから一時間ばかり後に、一度目をさまさなければならなかった。
 泥のように熟睡していたドレゴをほんの数秒の間なりとも目を覚まさせ、むっくり寝台の上に起上らせるという力を発揮したものは、相当のものであった。ドレゴは愕《おどろ》いて目をさましたのだ、そして重い瞼を懸命に開いて、何か大きな音のした方を見廻したのであった。分かった。寝台と反対側の壁にかけてあった聖母マリヤの額像が半分に千切《ちぎ》れ、上半分だけが壁にぶら下ってまだぶらぶらしていた。下半分は絨氈《じゅうたん》の上に散らばって落ちているようであった。
「ちぇっ、うるせいぞ」
 半睡半醒の状態にあったドレゴは如何なるわけにて不思議にもマリヤの額縁が半分に叩き壊されて落ちたのかを探求する慾も起らず、物音のしたわけだけを了解すると安心してそのまま再び寝台の上にぶっ倒れて睡ってしまったのである。
 それから二時間ばかり経った。
 ドレゴは再び目をさまさなければならなくなった。それは異様な血みどろの悪魔が、彼を包んでしまってその恐ろしさと苦しさにどうしても目をさまさずにいられなかったのである。
「ああ――っ、夢だったのか……」
 ドレゴは、完全に目をさまして、寝台の上に半身を起こした。彼は沙漠を旅行した者のように、疲れ切っている自分を発見した。それから下腹が今にも破れそうに膨《ふく》らんでいるのに気がついた。いや、もう一つ、顔の左半面が妙にひきつっている。
 彼は手をそこにやってみた。指先にかさかさしたものが触った。何だろうと、手を引いて見ると、それは赤黒い血の固まりであった。彼はびっくりして顔から頭へかけて手で撫《な》でまわした。ぴりりと痛むところが一箇所みつかった。それは左のこめかみの少し上にあたるところで、毛根にがさがさするほど血らしきものがこびりついていた。

  承前・稀代の怪事

「いつ、やったのか。昨夜は大分飲んだらしいが、……はて、気がつかなかったぞ」
 ドレゴは寝台を下りた。寝台を下りるとき枕許をふりかえると、枕も夥《おびただ》しい血で赤黒く汚れていた。
 そのときも彼はその負傷が、昨夜の梯子酒《はしござけ》の行脚《あんぎゃ》のときにどこかで受けたものであろうとばかり考えていた。
 彼は、北側の壁にかけてある鏡の前に進み寄った。
「あ! ……」
 彼は自分の顔を、幽鬼と見まちがえた。そうであろう、顔色は青く、目は光を失い、頭髪は萱原《かやはら》のように乱れ、そして艶のない頬の上にどろりと、赤黒い血痕が附着しているのであったから。
 彼は、非常な後悔の念に駆られた。そして一刻も早くこのような幽鬼の形相から脱《のが》れたいと思った。そのために彼は、隣の化粧室の扉を蹴るようにして中へ飛び込んだ。
 水をじゃあじゃあと出して、顔をごしごし洗った。首筋から胸へかけても、ひりひりするほどタオルでこすった。うがいも丁寧に二
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