第五氷河期
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)海嘯《つなみ》
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(例)融けた[#「融けた」は底本では「触けた」]
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氷河狂の老博士
「氷河狂」といえば、誰も知らない者はない北見徹太郎博士は、ついに警視庁へ出頭を命ぜられた。
老博士は、銀髪銀髯の中から、血色のいい頬を耀かせ、調室の壊れかかった椅子に傲然と反り身になり、ひとり鼻をくんくん鳴らしていた。
「うむ、実にけしからん。わしをわざわざ呼んでおきながら、いつまで待たせるのか。わしを一分間、むだに過ごさせるということはやがて一千人の人間、いや一万人の人間を凍結させることになるのだ。ばかな話じゃ」
そういって老博士は、またもや、鼻をくんくん鳴らした。
午後の陽ざしが、ただ一つ西側にあいた窓から入ってきて、破れたリノリウムの上に、鉄格子の影をおとしている。冬とはいえ、今年はいやに暖い日がつづく。
扉が、乱暴に開いて、警官が、ぬっと顔をさし入れた。彼は、博士の姿を見ると、後をふりかえって、うなずいた。
博士は、椅子からとび上がり、
「おい、こら。いつまで待たせるのじゃ。総監にそういえ」
と、人もなげな口をきいた。
そのとき、入口から、力士にしてもはずかしくない巨漢が現われた。きちんとした制服に身をかためた植松総監だった。そのあとから、背広服の人物が三、四人。
「やあ、北見博士。お待たせいたしました。なにしろ、今日は、つぎつぎに急ぎの仕事が押しかけたもので、たいへん遅くなって申し訳ありません」
総監は、人ざわりのいい言葉で、老博士の機嫌をとった。
「今日は、わしをどうしようというのかな。わしも、あなた以上に忙しい身の上だから、早いところ用事を片づけてもらいましょう」
「いや、博士、例の氷河の件ですがね。今日は、皆で博士の話を承ろうというので、集まってきたんです。さあ、皆さん、そこらへ席をとってください」
北見博士は、うさんくさそうに、総監についてきた一同の顔を見まわした。
「この連中は、何者じゃな」
「皆、本庁関係の者ですよ。博士の氷河の話に、たいへん興味をもっている人たちです。――博士、氷河期が近くこの地球に襲来するというのは、本当ですか」
「本当か嘘か、そんなことをいまさら論じているひまはない。氷河期が来ることは、もはや疑いのないことだ。われわれは早速、これに対する防衛手段を講じなくてはならない」
老博士は、怒ったようにいう。
「氷河期が来ると、いったい、どういうことになるのでしょうか。われわれ素人に、よくわかるように話していただきましょう」
総監は、あくまで下から出る。
「氷河期が来ると、どんなことになるか。そんなことは、わしに聞くまでもない。要するに、地球の大部分――いや、今度やって来る第五氷河期は、おそらく地球全体を蔽いつくしてしまうだろう。このままでいけば、地球のあらゆる生物は死滅し、あらゆる文化が壊滅し、軍備も経済も産業も、すべてめちゃくちゃになる。たとえ幸運に推移して、いくらかの人間が生残ったとしても、人類の勢力は、約二万年昔に後退するであろう。なんという恐ろしいことではないか」
「もし、博士のいわれるとおりの事態が来たとすると、これはたいへんですね」
「それが来ることには、まちがいないのだ。わしが、これほどはっきりいってやるのに、君たちは、まだそれを信じないのか」
「そういうわけでもないのですが、しかし、あまりとっぴな話ですからね」
「天災は、すべてとっぴなものだ。人類は、自分たちのもっている知力を過信している。まだまだ今の人知力では、天災を喰い止めるだけにいたっていない。そうではないか。火山の爆発の予知さえできていない。台風の通路を計算する力さえない。冷害の年がくることを予報する力さえない。天気予報が、このごろになって、やっと大分あたるようになったくらいだ。自然の大きな力に刃向う人知の大きさは、人間に手向う蟻の力よりもはるかに小さい。いったい、このごろの人間は、自惚れすぎているよ。この大宇宙の中で、人間はいっとう知力の発達した生物だとひとりぎめをしているのだからなあ」
老博士は、銀色の髯の間から、しきりに泡をとばし、腕を高くふりあげつつ、まくしたてた。
「博士が氷河期が来るとおきめになったのは、どういう根拠によるのですか」
総監は、あいかわらず、冷静な態度をつづけた。
「ああ、そのことじゃが……」
と、老博士は、溜息をついて、
「そのことは、なかなかむずかしい学問になるから、君たちにいっても、ますます信ぜられなくなるばかりだ。だから、君たちは、わしのいうとおり、氷河期が来るという結論を信じて、さっそく防衛手段に急ぐのがよろしい」
「しかし博士、私たちは、そう簡単に、結論だけを信じかねます。なにか、もっとほかに、氷河期の来るという証拠を目にし耳にしないと、信じられないのです」
総監は、ここぞと、博士にくいさがった。
ついに大地震う
「そんなことは、いってもむだだ。考えることもむだだ」
老博士は、つよく首を左右にふった。
「むだなことはありません。いや、むしろ、それとは反対に、必要なことです。博士、世間では、博士のことを、氷河狂と申していますぞ。氷河期が来るから、さあ皆、その用意をしろと、博士は叫びまわっておられる。博士は、親切にそういっているのに、世間では、信じない。それは、博士がなぜ氷河期が来るか、その筋道をはっきりおさせにならないから、そんなことになるのです。おわかりでしょうね」
「ご意見はいちおう忝けないが、それはやはりむだである。世間の大衆には、わしの話はむずかしすぎて、これを説く力がないのだ。いや大衆だけではない。おそらく現存の科学者の中でも、果してそのうちの何人が、わしの説明を了解するであろうか。結局それは無駄だよ」
「博士が、そうおっしゃると、中には、博士は嘘をついて脅かしているんだと思う者がいます。わからなくとも、いちおう、なぜ氷河期が来るのかということについて、説明されるのが、お身のためでしょうと思います」
総監は、あくまで、ものやわらかだ。
博士は、顔を真赤にして、すこぶる憤激の態であった。
「総監、あなたは、こういうことを考えてみるがいい。国と国との間に戦争が起ったとする。両国の軍隊は、今さかんに大砲を打ち合い、互いに爆撃をくりかえしている。そのさいちゅうに、軍人が、これはいったい、なぜ戦争になったのかしらん、その筋道は如何、と、そんなことを考え込んでいて、いいものだろうか。戦争は、すでに始まっているのだ。軍人は、ただちに部署について、敵襲に備え、または果敢に攻撃に出なければならない。――それと同じで、氷河期は刻一刻、近づきつつある。すでに大砲は鳴り、爆音は響いている。それになんぞや、科学を理解する力もなくて、科学を検討しようというのは、何という愚かなことだ。科学のことは科学者にまかせ、あなたがた、科学のだす結論を信じて、処置をすればいいのだ。そうではないか」
総監は、当惑顔であった。
「しからば、博士にうかがいますが、氷河期が来るについて、すでに大砲が鳴り、爆音が響いているというお話だが、それは、具体的にいうと、どんなものでしょうか。どこかの地方が、急に気温が下がりだしたという報告でもあるのでございましょうか」
総監は、熱心を面にあらわして、博士に迫っていった。博士は、それをきくと、大きくうなずき、
「氷河期の徴候は、もうだいぶ現われはじめている。第一は、このごろの、へんに熱くるしい気温のことだ。冬だというのに、まるで四、五月ごろの気温ではないか。それに近頃、東京地方では、地震が頻発しているが、これもその前徴の一つである」
「気温が高いということは、氷河期とは、ぜんぜん反対の現象のように思いますが、いかがですか。こう暖かければ、なかなか氷河期なぞ来ないだろうと思われます」
「それは素人考えだよ。今に見ていなさい。大きな地震がやってくる。一度や二度ではない。記録にもないほどの大地震が頻発するのだ。それから、火山が活動をはじめるだろう。それも記録破りの大活動をな。それは、もう間もなく起るだろう。そのときは、わしのいった言葉を思い出すがいい」
やがて、頻々と大地震が来る。そして火山が活動をはじめる。――博士は、それがいよいよ氷河期の徴候だというのだった。
総監は、博士の言葉が、いっこう腑におちなかった。彼は、いっしょに連れ立ってきた四人の権威者の方をふりむいた。
ところが、その四人の権威者は、いずれも眉をひそめて、博士には知れないように、かすかに首を左右にふった。
(博士のいうことは、信頼できませんよ)
(やっぱり、精神病者ですよ)
総監に対して、このように報告しているようであった。
総監は、あらためて博士の方に向きかえり、
「博士。私は素人ですから、結局、博士のお話がわからないのだとは思いますが、地震や噴火がはげしくなれば、気温は、いよいよ上昇するのではありませんか。むかし、関東地方に大地震がありました年も、十一月ごろまで、初夏のような温暖な気候がつづいたことを憶えております」
と、突っ込んだ。すると博士は、
「あの大地震と、今度の大地震とは、まったく程度もちがえば、性質もちがう。今度の大地震は、地球の周期的大爆発だから、地震は、地球全面に起り、噴火も日本だけではなく、殆ど全世界に起る。そういう大噴火の次に来るものは――」
といいかけて、そのとき博士は、なぜか口をつぐんだ。総監は、やきもきして、
「博士、そういう大噴火の後に来るものは? それはいったい何です。早く聞かせてください」
「……」
博士は、無言で立ち上った。このとき博士の顔面から、血の気が、さっと引いた。
「どうしたのですか、北見博士」
「ああ――」
博士は、うめいた。
「おお、これは大きいぞ。大地震の襲来だ。さあ、あなたがたは、すぐ避難せられたらよかろう。とうとう、恐るべきものが、大徴候を投げつけたぞ」
そういって、博士は、よろよろと足を踏みしめ、戸口の方へ歩いていった。
戸口を護っていた警官が、おどろいて博士を押し戻した。
「なにをする。貴公も、早く避難することじゃ」
「ごまかして、逃げだそうとしても、そうはいきませんぞ。元の席へ、おかえりなさい」
警官は、腕を突張って、博士を叱りつけた。
そのときであった。
床が、ぐらぐらと持ち上った。
「ああっ!」
一同が愕く間もなく、床は、またすーっと下におりた。
「地震らしい。へんな地震だ」
そういっているとき、気持のわるい地鳴りが、人々の耳をうち、そしてその音は、しだいに大きくなり、やがて、どーん、どーんと、巨砲をうちでもしたような音とかわった。そのころ、室内は、荒波にもまれる小舟のように上下左右に、はげしく揺れ、壁土は、ばらばらと落ちる、窓ガラスは大きな音をたてて壊れる。濛々たるけむりの中に、総監をはじめ一同は、倒れまいとして、互いにしっかと、身体を抱きあっていた。
火山総活動
植松総監は、急に忙しい身の上となった。
なにしろ、思いがけない大地震のため、堅牢を誇っていた警視庁は、無残にも、半壊してしまった。
そういうわけだから、東京全市にわたって、倒壊家屋は数しれず、しかも先年の震災のときと同じように市内七十数カ所から、火災が出た。
警防団は、すぐさま手わけをして、組織的な消防作業をはじめた。市民たちは、すこしばかりの荷物をまとめて、続々と郊外へむけて避難を開始した。
電気は、すぐとまってしまったので、人々は、歩いていくほかはなかった。トラックや自動車はあったけれど、これはすべて、ただちに徴発されて官公用になってしまった。
放送局だけが活躍をして、さまざまのニュースを伝え、市民たちに警告を発した。しかし、市民たちの持っていた受信機は、交流式だったから、放送局は、ただ自分ひとりで忙しそうに活躍しただ
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