せっかくの権威者会談が、青倉教授と志々度博士の意見の両立となってしまって、総監はついに、その席では、何らの措置決定をせずして、会談を閉じた。
 しかし彼は、北見氷子女史からもたらされた老博士の申し出事件を、うやむやに葬ってしまう考えはなかったのであった。
 会談解散後、総監は、ひとり多島警視を自分の部屋に呼び込んで、二人きりの相談にうつった。
「ねえ多島警視。さっきの会談は、弱ったじゃないか。君は、終始黙々としていたが、あれはどうしたわけだ。ここで説明したまえ」
 総監は、警視の沈黙をよく憶えていて、ここで返事を督促したのであった。
 警視は、そういわれると、自分で椅子を総監の方に進めながら、
「総監閣下。これからある意外なご報告をいたそうと思いますが、その前に、閣下に対し、おわびを申しておかねばならないことがあります」
「なんじゃ、吾輩に詫びることがある。ふーん、そうか。君にしては珍らしい話だ。よろしい。怒りはせん。いいたまえ」
「はい。実は、閣下には申し上げないで、私一存によりまして、調査していたことがございました」
「ふむ。それは、どういう事項か」
「それは、北見博士の行動についてでございます。あの震災の日老博士から聞いた話が、非常に私を刺戟しました。多分、老博士の頭脳が変調を来たしているのだとは思いましたが、それにしても、万一老博士のいうことが本当であったら、どうであろうか。われわれは、博士が狂人だと思いちがいをしていたために、もし氷河期がやって来たとき、われわれは呆然として手の下しようもないというのでは、申し訳ないと思い……」
「よしよし、そのへんはよく分る。で、君は、吾輩に秘密裡に、どんなことをやったというのか」
「北見老博士の跡を、優秀なる二人の刑事に追わしめました」
「博士は、どうしているのか」
 多島警視は、総監のその問には、わざと答えず、
「二人の刑事は、ただいま、アメリカにおります」
「なに、アメリカに……。すると、北見老博士も、アメリカにいるとでもいうのか」
 総監も、さすがに愕いた様子だ。
 多島警視は、大きくうなずき、
「北見氷子女史の話は、わが二人の刑事の報告と、完全に合っています」
「博士は、アメリカで何をしているのかね」
「廃坑を五カ所、買いました」
「廃坑とは、役に立たなくなった鉱山のことかね」
「そうです。すっかり鉱石を掘りつくした鉱山のことです。博士が買ったところは、いずれも非常に深く掘り下げてあるところだそうです。それから博士は、しきりに罐詰を買いあつめています。アメリカには、この前の大戦のとき、全体主義国側に渡すまいとして、要《い》りもしないのに百五十億ドルもの罐詰を買って持っているんです。これが今日、二束三文で買えるのです。博士は、それを買って、どんどん廃坑の中へしまいこんでいます」
「ほう。それは愕いた」
「博士は、廃坑の底にエンジンを持ちこんで、地底で発電しようと計画しています。それから薬品を買い込んだり、書籍を集めたり、大童で働いているそうです」
「アメリカ人は、博士の計画を知っているのだろうか。つまり、博士が、氷河期の用意をしているのだということを」
「いや、博士は、それに関しては一語も語っていないようです」
「今までの費用は、どこから出ているのか」
「博士の舎弟が、カルフォルニアに大きな農園を経営していますが、その舎弟から、二百万ドルの融通をうけたそうです」
「博士は、アメリカ人をすくうためにやっているのだろうか」
「それはよくわかりませんが、女史の持ってきた手紙を信用すれば、日本人を救うつもりでしょう」
「だって、アメリカだよ、その避難坑は」
「なあに、飛行機で飛べば、たった一日で太平洋を越えて行けます。博士を信じていいのではないでしょうか」
 多島警視は、総監の質問に対し、いちいち明快な答を与えたので、総監はたいへん満足の様子であった。そこで警視は、たずねた。
「閣下。それでは、北見老博士の依頼してきたことをご承諾になりますか」
 すると総監は、しばらく目を瞑《と》じて、黙っていたが、やがてしずかに口をひらいた。
「吾輩は、そのような事業の表面に立つことを許されていない。たとえその筋に持ち出したとしても、なかなか通るまい。通ったとしてもずいぶん日数もかかれば、たくさんの反対にも遭い、金額も削減されるだろう。それでは、この緊急の事態に備えることはできない」
「では、老博士のせっかくの計画も、ほんの一部しか達せられないわけですね」
 警視は、失望の色をありありと見せていった。そのとき総監は、警視の手を、ぐっと握りしめ、
「吾輩は、表面に立てないが、君は、一身を犠牲にする覚悟なら、やってやれないことはあるまい。おい、多島。吾輩は、君に、ある有力な財閥人を紹介する。そして志々度博士と緊密なる関係のもとに、協力してやっていくことだ。アメリカに一万人の日本人を収容することも結構だが、できれば、もっと多数の日本人を救いたいではないか」
「よくわかりました、総監閣下」
 警視は、総監の手を強く握りかえして、
「すると、閣下は、第五氷河期が、いよいよ本当にやってくることをお信じになったわけですね」
「いや、それは、そうともいえないのだ。吾輩も君も、科学者ではないから、信ずるも信じないも、その力がないのだ。だから吾輩は、表面に立つことはできないのだ。だが、素人であるだけに、かえって科学というものを純粋にうけいれる素直さを持っているともいえようではないか。あとは、もう聞かないがいい。そして吾輩は、君の覚悟と手腕に期待する」
 総監は、しみじみと、そういった。


     恐ろしき異変

 氷河期は、ついに来るか。
 それとも、これは青倉教授の厳たる説のごとく、やはり来なかったであろうか。
 その年の冬は過ぎ、やがて春とはなった。
 そのころ、異変は、そろそろ現われかけたといっていい。梅の実は、いっこうに大きくならず、桜桃も、またいっこうに実を結ばなかった。
 やがて梅雨の季節となったが、雨はすこしも降らなかった。変調は、いよいよ現われはじめたのである。
 七月となり八月となった。いつもの年ならば、人々は、襯衣《はだぎ》一枚となり、あついあついと汗をふき、氷水をのむのであったが、その年の七月八月は、まるで高山の上に暮しているように寒冷をおぼえた。むしろ春の頃よりも、気温が下ったように感じた。
 そのころには、人々は、いくら大空を仰いでみても、あの澄みわたったうつくしい紺碧の空を仰ぐことはできなかった。空は、熱砂の嵐のように、赤黒く濁っていた。そしてその中に、赤いペンキをなすりつけたように、太陽形が、ぼんやりとうかんでいた。
 九月十月になって、雨が降り出した。雨はなかなかやまなかった。そのうちに雪にかわった。雪が降りだすと、いつもとは反対に、気温がぐんぐん下りだした。
 積雪は、いつものように、屋根からかきおろされ、道路をうずめているものは、下水管の中に捨てられた。
 だが、下水管は、まもなく雪でいっぱいになってしまった。下水がいっこうに流れないのであった。そして雪といっしょになって凍りついた。
 積雪は、もはや道路のうえから取り除くことができなくなった。連日、ひどい吹雪がつづいた。見る見るうちに、雪はうず高く積っていった。道路も人家の屋根も、雪の下に埋没してしまった。
 それでも、人々はまだ、それほど事態を重大視してはいなかった。その証拠に、まったく雪に埋もれてしまった大東京の上を、スキーヤーたちが、これこそ天の恵みとばかりに、滑りまわったのだ。
 雪は、ますます降った。太陽は、どこかへいってしまった。食糧難がやってきた。燃料は、あと一カ月をかろうじて支えるほどに少くなった。
 十一月から十二月となった。雪は融けなかった。ようやく冬に入ったばかりであるのに、大東京の積雪は五メートルに達した。諸所で、家屋が倒壊した。雪の重味が、いよいよ屋根のうえから加わったのであった。人々は争って、鉄筋コンクリート建の小学校やビルの中へ殺到した。
 食糧と燃料の不足が、いちだんと激しくなった。それまでは、辛うじて送電をつづけていた発電所も、ついに休電のほかなくなった。水力電気は、もうとっくの昔から停まっているが、今まで送電をつづけてきた火力電気も、いよいよ貯蔵の石炭がつきてしまったのであった。全市はついに暗黒と化した。
 こういう状況は、ひとり日本だけのことではなかった。世界的の異常現象だった。日本などは、まだ温い方であった。
 ニューヨークでも、ロンドンでも、高さ数十階を誇る高層ビルが、雪害のために、頻々として、灰の塊のように崩れだした。雪害というよりも、氷害といった方がいい。高さ数十メートルに達する積雪は、その重さのために、下層の雪は、固い氷と化した。そして、だんだんと大きな塊となっていったのである。
 氷だ。氷の塊だ。その氷塊が、しずかに動きだした。氷塊も、やっぱり高いところから低い方へ動いていくのだ。
 もうそのころは、誰が見ても、地球の上に氷河期がやって来たことに気がついた。
 氷河だ。大氷河だ。
 氷河は、目に見えないように動いた。そして、地上からとび出したあらゆる建築物を押し倒しこれを粉砕していった。
 建築物だけではない。丘陵も、氷河のために削られていった。丘陵だけではない。大きな山嶽が、下の方をだんだんに削り取られ、やがて一大音響とともに、氷河の上に崩れかかるというものすごい光景さえ、随所に演じられた。
 だが、誰も、それを見た者はなかった。高さ数百メートルの氷河の下なる地上には、もはや一人の人間、一頭の白熊さえ棲息していることを許されなかったからだ。大死滅だ。生物は、自然の猛威の前に、すっかりひれ伏してしまったのだ。
 生物の絶滅!
 もしも地球の外部から、この惨澹たる氷河期に見舞われた、地球の有様を見ていた者があったとしたら、彼は、地球のうえの、人類をはじめあらゆる生物は死滅し終ったと思ったであろう。
 だが、事実は、いささか、それとは喰い違っている。大氷河の下に、奇蹟的に生存している人類の集団があったのだ。一部はアメリカに、そして他の一部は日本に!
 いずれも、地上から測って、探さ数百メートルの地底に奇蹟的に生きている日本人たちであった。
 アメリカの避難坑は、氷河狂といわれた北見博士によって護られ、日本の避難坑は、志々度博士を最高指導者として護られていた。
 北見博士の予想はみごとに適中して、ついに第五氷河期は来たのであった。火山からのおびただしい噴出物は、高空に沈滞し太陽熱をすっかり遮断してしまったのである。そしてこの恐るべき第五氷河期がついに来たのであった。
 博士は、別に誇らしげにも見えない。いや博士の面上には、以前にもまして沈痛の色がただよっている。
(ここまでは氷河期と闘ってきたが、これから氷河の融け去るまでの何十年何百年間を、はたしてわれわれは持ちこたえることができるだろうか。まだまだ自分の準備は非常に足りなかったのではないか)
 博士は、誰にもいえない悩みを胸に抱いて、ひとりで闘っているのだった。



底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
   1976(昭和51)年1月15日発行
   1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
2000年3月29日公開
2006年7月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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