この思切った大脳手術を乞《こ》うた。幸《さいわい》に先生は大きな同情をもって快諾し、そして私の注文通りの手術を行ってくれた。それから幾日経ってか、私が気がついたときは、私は一頭のゴリラになり果てていた。そして従来に例なき安楽な気持と溌溂たる精力とをもって、檻の中より動物園入場者の群を眺めて暮らす身の上とはなった。桜の花片《はなびら》は、ひらひらひらと、わが檻の上より舞落ちるのであった。私は生れて始めての安楽な生活に法悦《ほうえつ》を覚えた。
そういう楽しい生活が無限に続いてくれることを祈っていた私だが、入園後まだ浅き或る日のこと、私の楽しい気持は突然|剥奪《はくだつ》されるに至った。それは私の檻の前に立った一人の見物人を見上げたときに起ったことである。そのとき私は思わず、があがあと叫んで牙を剥《む》いたものである。
その男――わが檻の前に立ち、熱心にこっちを覗《のぞ》いているその男――その男の顔、肩、肉づき、手足、全体の姿、そのすべてがなんと曾《か》つての本来の私そっくりであったではないか。私はその瞬間、万事を悟《さと》った。
(貴様だな、俺の両脚から始めて両腕、臓器、顔などと皆買い集めてしまったのは……。貴様は、俺のものをそっくり奪ってしまったのだ。買取るならそれもよろしいが、そのように俺のものを全部集成しなくともよいではないか。殊《こと》にこれ見よがしに、俺の檻の前に立つとは怪《け》しからん。……だがな、貴様はまだ俺からその全部を奪っているのではないのだぞ。脳細胞のことよ。肝腎《かんじん》の脳細胞は、今ちゃんとこうしてこっちに有るんだ。あはは、お気の毒さまだ)
私は腹を抱えて、ごうごうと笑ってやった。すると彼の男は、私の言葉を了解したと見え、急に恐ろしい形相《ぎょうそう》となって、私の檻へ歩みよった。
「あ、危い」
それを後《うしろ》から引留めた者がある。おお、鳴海だ。鳴海が、何故こんなインチキ野郎についているのだろうと私はちょっと不思議に思ったが、それを解いている遑《いとま》はなかった。彼のインチキ男は、檻の鉄棒に掴《つかま》って、それを前後に揺り動かしながら、私に向って訳のわからぬ言葉で罵《ののし》った。私はむらむらと癪《しゃく》にさわって、いきなり立上ると檻の方へ飛んでいって、恨《うら》み重《かさ》なる不愉快なその男の小さな顔を両手で抑えつけ、ぐわっと噛みついてやった。ああ、いい気持だ。
× × ×
以上は、第三十四号室の患者○○○○氏の手記である。同氏は本日余の執刀によって大脳手術を受けることになっているものであるが、氏の錯倒《さくとう》精神状態はこの手記によって自明である。だが、これは精神病ではなく、弾片《だんぺん》によって脳髄に受けたる圧迫傷害に基《もとづ》くもので、大脳手術を施すことにより多分恢復するだろうと思われる。
なおこの手記は極めて興味あるものであって、患者の脳症を顕著に示しているが、しかし氏が斯《かか》る患者であるとの予備知識なくして一読するときは、一つの纏《まとま》った物語として受取れる。しかしこの物語の中にある事件は大部分が実在したものではない。
すなわち氏の友誼《ゆうぎ》篤《あつ》き親友鳴海三郎氏の談によれば、次の如き興味ある事実が判明する。
一 珠子なる婦人は実在せず、全く闇川吉人《やみかわきちんど》の幻想に出《い》づ。
二 迎春館も和歌宮鈍千木氏《わかみやどんちきし》も実在せず。但し、和歌宮先生なるものは、実は闇川吉人が自ら二役的存在として仮装せるものと信ずべき節あり、すなわちヤミカワ、キチンドなる名を逆に読めばワカミヤ、ドンチキにして、こは彼の小説家らしき仕業なりと思料《しりょう》す。
三 闇川吉人は一脚すら売飛ばせるものにあらず。況《いわ》んや最後に残りたる脳細胞を動物園のゴリラに移植したるなどのことは全然虚構に属する妄想なり。只《ただ》、一日吾は彼を散歩に連れ出し、落花紛々《らっかふんぷん》たる下を動物園に入場し、ゴリラの檻の前に至りたる事、及び彼がゴリラの檻へ近付かんとしたるを以て、吾は愕《おどろ》いてそれを引留めたるは事実なり。
吾は、不幸なる闇川吉人が、幸いに瀬尾教授の手篤《てあつ》き手術によりて、戦前の如き健全なる彼にまで恢復することを祈念してやまざるものなり。
底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「富士」
1945(昭和20)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
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