識《し》らずのうちに、それと反対に自己を破壊し尽していたのだ。こんな悲惨な出来事があるだろうか。私にとっては、それは大なる悲劇であるが、世間の人達にとっては、この上もなくおかしい喜劇だというであろう。
 私はすっかり自信と希望とを喪《うしな》ってしまった。私は急に病体となった。心も体も、日ましに衰弱していった。思考力が、目立って減退《げんたい》し始めた。記憶も薄れて行く。こんなことでは、本来の自己の最後の財産である脳髄までが腐敗を始め、やがて絶対の無と化してしまいそうだ。この新《あらた》なる予感が、重苦しい恐怖となって私の全身を責《せ》めつける。
 私は一日医書を繙《ひもと》き、「若返り法と永遠の生命」の項について研究した。その結果得た結論は次の如きものであった。
“臓器や四肢を取替えることによって見掛けの若返りは達せらるるも、脳細胞の老衰は如何ともすべからず、結局永遠の生命を獲得することは不可能である”
 私は失望を禁じ得なかったが、そのうちに不図《ふと》気のついたことは、この医書はかなり版が古いことである。そこで今度は近着の医学雑誌を片端から探してみた。するとそこに耳よりな新説が記載されているのを発見した。
“……大脳手術の最近における驚異的発達は従来不可能とされた諸種の問題を相当可能へ移行させた。老衰せる脳細胞は、若き溌溂《はつらつ》たる脳細胞に植継《うえつ》ぎて、画期的なる若返りが遂げられる。かかる場合、知能的には低き脳細胞へ移植を行うことが手術上比較的容易である”
 この一文は、私に新なる元気をもたらした。有難い。わが脳細胞の老衰は全然処置なしではなかったのだ。私は何とかして若返える途《みち》を発見せねばならぬ。それにはどうしたら一番よいであろうか。
 いろいろ考えぬいた揚句《あげく》、私は遂に一案を思付いた。それは甚だ突飛《とっぴ》な解決法であった。しかし現在の私のような境涯《きょうがい》にあっては致し方のないことだ。読者よ、呆《あき》れてはいけない。私は、私の体に残れる本来の私の最後の財産たる老衰せる大脳の皮質を摘出して、これを動物園につながれている若きゴリラの大脳へ移植することを思付いたのだ。何と素晴らしきアイデアではないか。斯《か》くして私は、あの溌溂たるゴリラの測り知られぬ精力を、自分のものにすることが出来るのだ。
 私は、和歌宮先生に歎願して、この思切った大脳手術を乞《こ》うた。幸《さいわい》に先生は大きな同情をもって快諾し、そして私の注文通りの手術を行ってくれた。それから幾日経ってか、私が気がついたときは、私は一頭のゴリラになり果てていた。そして従来に例なき安楽な気持と溌溂たる精力とをもって、檻の中より動物園入場者の群を眺めて暮らす身の上とはなった。桜の花片《はなびら》は、ひらひらひらと、わが檻の上より舞落ちるのであった。私は生れて始めての安楽な生活に法悦《ほうえつ》を覚えた。
 そういう楽しい生活が無限に続いてくれることを祈っていた私だが、入園後まだ浅き或る日のこと、私の楽しい気持は突然|剥奪《はくだつ》されるに至った。それは私の檻の前に立った一人の見物人を見上げたときに起ったことである。そのとき私は思わず、があがあと叫んで牙を剥《む》いたものである。
 その男――わが檻の前に立ち、熱心にこっちを覗《のぞ》いているその男――その男の顔、肩、肉づき、手足、全体の姿、そのすべてがなんと曾《か》つての本来の私そっくりであったではないか。私はその瞬間、万事を悟《さと》った。
(貴様だな、俺の両脚から始めて両腕、臓器、顔などと皆買い集めてしまったのは……。貴様は、俺のものをそっくり奪ってしまったのだ。買取るならそれもよろしいが、そのように俺のものを全部集成しなくともよいではないか。殊《こと》にこれ見よがしに、俺の檻の前に立つとは怪《け》しからん。……だがな、貴様はまだ俺からその全部を奪っているのではないのだぞ。脳細胞のことよ。肝腎《かんじん》の脳細胞は、今ちゃんとこうしてこっちに有るんだ。あはは、お気の毒さまだ)
 私は腹を抱えて、ごうごうと笑ってやった。すると彼の男は、私の言葉を了解したと見え、急に恐ろしい形相《ぎょうそう》となって、私の檻へ歩みよった。
「あ、危い」
 それを後《うしろ》から引留めた者がある。おお、鳴海だ。鳴海が、何故こんなインチキ野郎についているのだろうと私はちょっと不思議に思ったが、それを解いている遑《いとま》はなかった。彼のインチキ男は、檻の鉄棒に掴《つかま》って、それを前後に揺り動かしながら、私に向って訳のわからぬ言葉で罵《ののし》った。私はむらむらと癪《しゃく》にさわって、いきなり立上ると檻の方へ飛んでいって、恨《うら》み重《かさ》なる不愉快なその男の小さな顔を両手で抑えつけ、ぐわ
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