突切って、いよいよ暗い方へ逃げ出した。
逃げながらも、私は朗《ほがら》かであった。どうかと疑った瀬尾教授のズボンの下には、私が忘れることの出来ないあの売払った脚が発見されなかったのである。すると瀬尾教授は、私の血眼になって探している男ではない。
それはいいが、一向姿を見せない彼の仇し男は一体誰であろうか。どんな顔をしている男だろうか。
無間地獄《むげんじごく》
這々《ほうほう》の体《てい》で逃げ出した私は、さすがに追跡が恐しくなって、その夜は鳴海の家を叩いて、泊めて貰った。
鳴海は、私から事情を聞いて、その乱暴をきつく戒《いまし》めた。そして今夜はたとえどんなことが起ろうと僕が引受けてうまくやるから、君は安心して睡れといって呉れた。お蔭で私は、ぐっすりと安眠することができた。
朝が来た。窓が明るくなると、私は反射的に跳起《とびお》きた。愕《おどろ》くことはなかった。鳴海が傍でぐうぐうと睡っていたし、家は彼の宅であった。追跡者も、遂に私の身柄を取押えることができなかったのである。一安心だ。
食堂へいって鳴海と共に朝食を済ませた。それから彼の部屋へ行って、電気暖房を囲んで莨《たばこ》をのんだ。
そのとき鳴海が、突然妙なことをいい出した。
「ねえ闇川。一体、迎春館主《げいしゅんかんしゅ》和歌宮鈍千木師なる者は実在の人物かね」
私は声が詰《つま》って、しばらく返事ができなかった。
「何故急にそんなことを訊《き》くんだい」
「だって僕は、これまで和歌宮を散々尋ねて歩いたんだが、遂に彼を見ることができなかった」
「探し方が悪いんだろう」
「いや、そうとは思えない。僕の調べたところでは、多くの人々が迎春館という名を知っており、和歌宮鈍千木師の名前も聞いて知っているが、さて迎春館のはっきりした所在も知《し》らず、また和歌宮師に会った者もないのだ。変な話じゃないか。君は、これに対してどういう釈明《しゃくめい》を以て僕を満足させてくれるかね」
「はっはっはっはっ」
私は声をたてて笑った。
「なぜ笑うのか」
「だって君はあまりに懐疑的だよ。和歌宮先生の如き貴人が、そう安っぽく人前に現われるものか。先生や迎春館に関する話がたくさん知られていることだけでも、その存在はりっぱに証明されるじゃないか。先生は、本当に人体売買の手術を希望する当人以外には会っている遑《いとま》がないのだ。仕事も忙しいし、それに更に深い研究を続けておられるものだからねえ」
「じゃ、君は僕を和歌宮師のところへ連れていって会わせて呉《く》れ」
「駄目だよ、君はそういう手術を希望していないんだから、やっぱり駄目だよ」
「とにかく僕は大きな疑惑を持っている。よろしい、そういうんなら他の方法によって、この疑惑を解いてみせる」
こんな話から、私は気拙《きまず》くなって、鳴海の宅から立去った。そして私は、更に荒《すさ》んだ生活の中に落込んでいった。
生活と刺激のために、私はいよいよ自分の体の部品を売飛ばさねばならなかった。頸から上だけは売るまいと思っていたが、今はそれさえ護《まも》り切れなくなり、眼球を売ったり、歯を全部売ったり、またよく聴える耳を売ったりして、遂には頭髪付の顔の皮膚までも売払ってしまった。そして私は、鏡というものを極度に恐怖する身の上とはなった。全くあさましき限りである。
顔がすっかり変ったということは、淋しきことではあるが、その代り都合のいいこともあった。それは、今まで私を知れる者が、今では私だといい当てることができなかった。鳴海さえ、町で出会っても、気がつかないで私の傍をすれちがって行ってしまう。私はたいへん気楽になった。
或るとき、私は図《はか》らずも一つの問題に突当った。それは外でもない。こうして容貌も変り、声も変り、四肢から臓器までも変り果てた現在の私は、果して本来の私といえるかどうかという問題であった。こんな苦を経《へ》てきたというのも、元々《もともと》本来の私というものが可愛いいためであった。ところが、よく考えてみると、本来の私というものが、今では殆んど残っていないのである。残っているのは脳味噌だけだといっても過言《かごん》ではない。あとは皆借り物だ。質の悪い他人の部品の集成体だ。そんないい加減の集成体が、果してやはり愛すべき価値があるかどうか、甚《はなは》だ疑わしい。この問題は意外にも非常に深刻な問題であった。私はこの問題に触れたことを大いに後悔した。しかし手をつけてしまった以上、もうどうすることもできない。問題の解決より外に、解決の方法はないのだ。
現在の私は、本来の私と同じように、自ら愛すべき価値ありや。
ああ、恐ろしいことだ。私はとんでもない過誤を犯した。自己を愛するためにあんなにまで苦労を重ねながら、知《し》らず
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