替えたのであった。只《ただ》そのような際に、常に守ったことは頸から上のものについては一物も売ろうとはしないことだった。顔を売ってしまえば、私の看板がなくなるわけだから、どんなことがあろうと、これだけは売ることはできない。
 欠乏と懊悩《おうのう》を背負って喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ、私は相も変らず巷を血眼《ちまなこ》になって探し歩いた。しかし運命の神はどこまでも私に味方をせず、珠子とその仇《あだ》し男の姿を発見することはできなかった。私は毎夜遅く、へとへとになって住居《すまい》へ転げこむように戻るのが常だった。
 鳴海の奴は、相変らずやって来ては、頭の悪いお祖母《ばあ》さんのような世話を焼いたり、忠言を繰返した。
「君も莫迦《ばか》だよ。いくら珠子さんは美人か知らないが、あれが生れながらの美人なら、それは君のように追駈け廻わす価値があるかもしれない。しかしよく考えて見給え、そんな価値はありやせんよ」
「生れながら、どうしたって」
「そこなんだ。いいかい、珠子さんという人は瀬尾教授とも古くから親しくしているんだぜ。或る人の話によると、珠子さんは以前はあんな美人じゃなく、むしろ器量はよくない方だった。それが急に生れかわったような美人になったんだそうで、そこにはそれ瀬尾教授の施《ほどこ》した美顔整形手術の匂いがぷうんとするじゃないか。そういう人為的美人に、君という莫迦者は愚かにも純粋の生命と魂を捧げているんだ。いわば珠子さんは、雑誌の口絵にある印刷した美人画みたいなものだぜ。そういうものに熱中する君は、よほどの阿呆《あほう》だ」
「……」
 これは痛い言葉だった。私は終日不愉快であった。鳴海の奴は、私の熱愛していた偶像を滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に壊してしまったのだ。私はそれ以来一層不機嫌に駆《か》りたてられた。こうなれば珠子に対する愛着は冷却せざるを得ないが、その代り珠子が私の脚を仇し男に贈ったという所業に対する怨恨《えんこん》は更に強く燃え上らないわけに行かなかった。
「よし、こうなればたとえ骸骨《がいこつ》となっても、彼《か》の仇し男を引捕えてやらねば……」
 その頃|丁度《ちょうど》或る筋から、珠子とその仇し男らしき人物とが、K坂の夜店に肩を並べて歩いていたという話を聞込んだので、私は新しい探求手段を考えついて早速実行することにした。それは私もK坂の夜店に加わって、手相|卜《うらな》いの店を張ろうというのだった。そして腰をどっしりと落付けて、かの両人の見張を行おうとするのだった。
 私はこの夜店の委員会の認可を受けた上で、黒の中折帽子に同じく黒い長マントを引摺《ひきず》るように着て、凩の吹く坂道の、小便横町の小暗《こぐら》き角《かど》に、お定《さだ》まりの古風な提灯《ちょうちん》を持って立商売《たちしょうばい》を始めた。始めの二三日は、むしろ楽しきことであったが、四日五日と経《へ》て行くうちに、この商売が決して楽なものではないと分った。いやむしろよほどの体力がないとやれない仕事だと分った。しかし私は屈《くっ》しなかった。
 風邪を引込んだが、私は休まなかった。水洟《みずばな》を啜《すす》りあげながら、なおも来る夜来る夜を頑張り続けた。さりながらその甲斐《かい》は一向に現われず、焦燥《しょうそう》は日と共に加わった。珠子とあの仇し男とは、余程巧みに万事をやっているらしい。
 ところが突然、一つの機会が天から降って私の前へ落ちて来た。それは立商売を始めてから四週日の金曜日の宵《よい》だったが、坂の上の方から折鞄《おりかばん》を小脇に抱えた紳士が、少しく酩酊《めいてい》の気味でふらふらした足取で、こっちへ近づくのが何故か目に停った。
「あ、瀬尾教授!」
 おお、間違いなく瀬尾教授だ。このとき私の頭脳に稲妻の如く閃《ひらめ》いた一事がある。
(ははあ、この先生のことかもしれぬ。私はうっかりこの先生と珠子との結びつきを忘れていたぞ。そうだ、珠子から私の脚を贈られたのは、この瀬尾教授かもしれない。よし、今それを改めてくれるぜ)
 私の胸は踊った。後は何が何やら夢中である。もう恐さも恥かしさもない。私は狂犬のように横町から飛出していって、いきなり教授の腕を捉《とら》えた。それから教授をずるずると横町へ引張りこんだ。それから隠し持ったる小刀で、教授のズボンを下から上へ向ってびりびりと引裂いた。そして教授の長い脛をズボン下から剥《む》き出すと、商売ものの懐中電灯をさっと照らしつけて、教授の毛脛《けずね》をまざまざと検視した。
「うわっ、た、助けてくれ」
 教授は教授らしくもない大悲鳴をもって、このとき助けを求めた。さあ、たいへん。忽《たちま》ち人の波が私たちの方へ殺到した。これはしまったと、私は提灯も懐中電灯もそこに放り出すと、一目散に暗い小路を
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