っと噛みついてやった。ああ、いい気持だ。
× × ×
以上は、第三十四号室の患者○○○○氏の手記である。同氏は本日余の執刀によって大脳手術を受けることになっているものであるが、氏の錯倒《さくとう》精神状態はこの手記によって自明である。だが、これは精神病ではなく、弾片《だんぺん》によって脳髄に受けたる圧迫傷害に基《もとづ》くもので、大脳手術を施すことにより多分恢復するだろうと思われる。
なおこの手記は極めて興味あるものであって、患者の脳症を顕著に示しているが、しかし氏が斯《かか》る患者であるとの予備知識なくして一読するときは、一つの纏《まとま》った物語として受取れる。しかしこの物語の中にある事件は大部分が実在したものではない。
すなわち氏の友誼《ゆうぎ》篤《あつ》き親友鳴海三郎氏の談によれば、次の如き興味ある事実が判明する。
一 珠子なる婦人は実在せず、全く闇川吉人《やみかわきちんど》の幻想に出《い》づ。
二 迎春館も和歌宮鈍千木氏《わかみやどんちきし》も実在せず。但し、和歌宮先生なるものは、実は闇川吉人が自ら二役的存在として仮装せるものと信ずべき節あり、すなわちヤミカワ、キチンドなる名を逆に読めばワカミヤ、ドンチキにして、こは彼の小説家らしき仕業なりと思料《しりょう》す。
三 闇川吉人は一脚すら売飛ばせるものにあらず。況《いわ》んや最後に残りたる脳細胞を動物園のゴリラに移植したるなどのことは全然虚構に属する妄想なり。只《ただ》、一日吾は彼を散歩に連れ出し、落花紛々《らっかふんぷん》たる下を動物園に入場し、ゴリラの檻の前に至りたる事、及び彼がゴリラの檻へ近付かんとしたるを以て、吾は愕《おどろ》いてそれを引留めたるは事実なり。
吾は、不幸なる闇川吉人が、幸いに瀬尾教授の手篤《てあつ》き手術によりて、戦前の如き健全なる彼にまで恢復することを祈念してやまざるものなり。
底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「富士」
1945(昭和20)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
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