そこにいなかった。いや、正確にいうと、寮の建物はあったが、寮の名が変っていたのだ。つまり寮は売られて、倉庫になっていた。倉庫の番人に珠子の移転先を聞いても、首を横にふるだけであった。私は失望を禁じ得なかったと共に、珠子に対して或る不満をさえ始めて感じた。
 だが、私は帰途《きと》についてから、思いかえしてもみた。珠子から私へあてた移転の手紙が、今郵便局の配達員の手にあるのではないか。もう一日も待てば、その封筒は私の家へ届けられるのではなかろうか。
 私は家へ戻って、ひたすらにその手紙の到着するのを待った。時間は遅々《ちち》として、なかなか捗《はかど》らなかった。私は縁側に出て日向《ひなた》ぼっこをしながら、郵便配達員の近づく足音を一秒でも早く聞き当てようと骨を折った。しかし私の望みはいつまで経っても達せられなかった。
 私の気持は、段々と侘《わび》しくなっていった。まだ明日《あす》という日もあるものをと、自分を叱《しか》ってもみた。しかし侘しさは消えなかった。私は自分の脚の毛脛《けずね》を――いや、これはあのとき売物を買って取付けたものであるが、今はこれが自分の脛の第二世となっている――それを撫でるともなしに撫で始めたが、侘しさが一層加わるばかりであった。この脚は、美しくてすらりと長かった私の前の脛とは全く異り、皮膚がいやにがさがさし、悪性のおできの跡が、梅干を突込んだような凹《くぼ》みを見せてそれが三つもあり、おまけに骨が醜くねじれていた。なおその上に良くないことに、今だにちょいちょい悪性のおできがふき出し、我慢のならぬ臭気を放つのであった。たった五千円ばかりのものだったから今になって贅沢《ぜいたく》をいえた義理ではないけれど、こうも悩まされるものと知ったなら、青春の方をもうすこし値段をねぎって、人並な脚を買うんだった。金さえあるなら今から良い脚を買い直してもいいのだけれど、残念ながら珠子との遊覧の旅にすっかり使い切って、実をいえば目下金策をあれやこれやと考慮中であるわけだ。
 私が、この厄介な脛に膏薬《こうやく》を貼りかえているところへ、めずらしく鳴海が入ってきた。
「よう闇川。やっぱり帰って来たんだね」
 鳴海はそういって、いつものように灰皿を探しあてると、それを持って私の前に胡坐《あぐら》をかいた。私は周章《あわ》てて彼を叱り飛ばした。この第二世の脚を彼に見られたくなかったからだ。でも鳴海は、ふうんと呻《うな》ったばかりで、私の脚へちらりと一瞥《いちべつ》を送り、あとは気にもとめていないという顔をした。
「珠子さんと一緒じゃなかったのかい」
「なにい……」
 私は不意打をくらって蒼《あお》くなった。
「いや、機嫌を悪くしたら、勘弁《かんべん》したまえ。なあに、さっき珠子さんの後姿を見つけたもんだから……」
「えっ、どこで珠子を……。詳《くわ》しくいってくれ」
 鳴海はびっくりして暫く私の顔を見詰めていたが、
「君を興奮させるつもりはなかったのだ。H街《がい》を彼女は歩いていたよ」
「ひとりきりか。それとも連《つ》れがあったか」
「さあ……困ったなあ」
「本当のことをいってくれ。僕は今真実を知りたいんだ。珠子は他の男と歩いていたのだろう。その男は、どんな奴だったい」
 私の険《けわ》しい追及が、鳴海の返答をかえって遅らせた。でも結局彼は答えた。
「別に怪しい人物ではなかったよ」
「でも……どんな男だ、其奴《そいつ》は……」
「君の知っている人だよ」
「じらせてはいけない。珠子の連れの男は誰だったか、早くそれをいってくれ」
「いっても差支《さしつか》えなかろう。瀬尾教授だ」
「なに、瀬尾教授。あの、大学の瀬尾外科の主任教授である瀬尾先生か」
「そうだ。だから君は別に興奮しないでよかったのだ」
 私はしばらく沈黙していた。そしてそのあとで呟《つぶや》いた。
「一体珠子は瀬尾教授なんかに何の用があるんだろう」
 その理由は、見当がつかなかった。しかし珠子があれ以来私に対し行方をくらまし、音信不通の状態をとっていることから考えて、たとえ相手が瀬尾教授であろうと、それと肩を並べて歩いているということは、私にとって重大問題たることを失わないのだ。
「君は今、H街だといったな」
「おい、血相かえて何処《どこ》へ行くんだ。待て、待てといったら」
 私は鳴海の狼狽《ろうばい》する声を後に残して、外に飛出した。行先はもちろんH街であった。
 H街はひどく雑鬧《ざっとう》していた。はげしい人波をかきわけ、或いは押戻されつして、私は何回となく求むる人を探し廻った。しかしその結果は、何の得るところもなかった。二人はどこかへ雲隠れしてしまったのだ。
 まあいい。いずれそのうちに、二人は又このH街に現われるだろう。そのときこそ引捕《ひっとら》えてくれ
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