ら老師は、学問的にすこしく疲れていられるのではありませんか。もしそうだとすると、これからあの金博士の奴を、この某大使館の始末機関で始末していただこうと余は大いに期待しているわけですが、それが甚《はなは》だ覚束《おぼつか》ないことになりますなあ。老師、大丈夫ですかなあ」
醤買石は、心細そうにいう。
「濃度をまちがえるような耄碌《もうろく》はしないつもりじゃが、はて、どこでまちがったかな」
王老師は、しきりに首をひねったり、山羊髯《やぎひげ》をしごいてみたが、一向その不思議は解《と》けなかった。
3
「おかげさまで、十分睡眠をとることが出来まして、長旅の疲れもすっかり癒《なお》りましたわい。いや、老師のおかげです」
食卓に向い合って、金博士が、王水険老師《おうすいけんろうし》を恭々《うやうや》しく拝《はい》しながらいった。それは老師にとって、いささか皮肉にも響く言葉であった。
「いや、お互《たが》いの年齢《とし》となっては、疲れを除くには睡眠にかぎるようじゃ。すなわち、いよいよ年齢をとれば、大量の睡眠が必要となり、すなわち永遠の眠りにつくというわけじゃ」
「御教訓、ありがたいことでございます」
老師は照れかくしに、つまらん講義を始める。
「ところで、この酒を一杯|献《けん》じよう。これはこの地方で申す火酒《ウォッカ》の一種であって、特別|醸造《じょうぞう》になるもの、すこぶる美味《びみ》じゃ。飲むときは、銀製の深い盃《さかずき》で呑めといわれている。ではなみなみとついで、乾盃といこう」
二つの銀の盃に、その火酒《ウォッカ》はなみなみとつがれた。盃の縁《ふち》は、りーんといい音をたてて鳴った。
「チェリオ!」
「はあ、ペスト!」
金博士は、変な言葉でうけて、盃の酒を、一息に口の中に流しこんだ。
老師も盃を傾けて口の傍《そば》に持っていった。しかし師は酒を呑んだわけではない。老師の拇指《おやゆび》が、その盃についている突起《とっき》をちょいと押した。すると、盃の底に穴があいて、酒はこの穴を通して盃の台の中にちょろちょろと流れ込んでしまった。とんだ仕掛のあるインチキ盃だった。
「どうじゃ、美酒《びしゅ》じゃろうが、もう一杯、いこう」
「さいですか。どうもすみませんねえ」
金博士は、またも盃になみなみ注《つ》いでもらって、老師と共に乾盃をくりかえした。
こんなことが三回続けられた。そして、老師の持てる盃は、一回毎に重くなり、そして三回目には、穴の入口まで酒が上ってきた。もうこの上は入らない。
やがて朝餐《ちょうさん》は終った。
「仲々いい庭園じゃろうが。ちと散歩をしてきたらどうじゃ」
「はい。では老師先生」
金博士は、日頃のつむじまがりもどこへやら、まるで人がちがったように師の前には従順となり、庭園へ出た。
「老師は、いらっしゃらないので……」
「ああ、わしはちょっとソノ……食事のあとで用を達《た》すことがあるので、そちだけでいってくれ」
「は。では、散歩をして参りましょう」
金博士は、石段づたいに芝地《しばち》に下り、そして正確なる歩速でもって、向うの方へ歩いていった。
「老師、うまくいったようですな」
卓子《テーブル》の下から、醤があの長いへちまのような額《ひたい》をぬっと出した。
「叱《し》ッ。ボーイが、こっちを向いている。いやよろしい、窓の方を向いた。……いや、醤どの、うまくいったよ。あの無類の毒酒《どくしゅ》を、まんまと三杯も乾《ほ》してしまったよ。致死量《ちしりょう》の十二倍はある。あと十五分で、金博士の死骸《しがい》が庭園に転がるだろうから、お前の部下に手配をして、早いところ取片づけるように」
「そうですか。あと十五分ですか。それは大成功だ」
「やれやれ、醤どののためとはいえ、殺生《せっしょう》なことをしてしまったわい」
王老師は、ちょっと後味《あとあじ》のわるさに不機嫌な表情をつくった。
醤は、もう話はすんだと、卓子《テーブル》の下から脱兎《だっと》のようにとびだすと、部下のつめている部屋へとんでいって、金博士の死骸の取片づけ方を命令した。やれやれこれで、あの恐るべき金博士を始末することが出来たかと、醤買石は、鼻の横に深い皺《しわ》をつくって、大満悦《だいまんえつ》であった。
4
それから二時間ばかり経った。
食堂の隅の卓子《テーブル》に、醤と王老師とが向いあい、額をあつめて、何か喋っている。さっきとはちがい、二人の顔付は、共にすこぶるいらいらしているように見えた。
「王老師、ことごとく失敗ですぞ。どうしてくださる」
「どうしてくださるといって、どうも不思議という外ない」
「余はあのように多額の報酬金《ほうしゅうきん》を老師に支払ったのも、当館の始末機関
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