博士はその部屋に入ったが、すぐ出て来た。そして元の食堂に戻って来た。
 このとき卓子《テーブル》の上には、白いクロスが伸べられ、その上には金色のフォークやナイフが並び、卓子《テーブル》の用意が出来ていた。
 博士は、ナプキンを胸にさし込みながら、食事の催促《さいそく》をした。
 給仕が、燻製《くんせい》の鮭《さけ》を、金《きん》の盆にのせて持ってきた。
「おや、わしの好きな燻製が朝から出て来るぞ。これは頼《たの》もしい。彼奴《きゃつ》らの目の覚めないうちに、腹一杯喰っておくことにしよう」
 博士の機嫌《きげん》は、斜《なな》めならず、フォークとナイフとを使いながら、何かしきりに呟《つぶや》いている様子が、たいへん楽しそうに見えた。
 そこへ給仕頭が、次の料理を搬《はこ》んできた。金博士は、その給仕頭をとらまえて、
「おい、あんちゃん。わしが王先生と醤買石の寝室を覗《のぞ》きにいったことは、内緒にしておいてくれ。これはわしの志《こころざし》ぢゃ」
 そういって博士は、ポケットから取り出した一つかみの金貨を呆《あき》れ顔の、給仕頭の掌《て》にのせてやった。


     2


 人を咒《のろ》うことについて趣味のある醤買石《しょうかいせき》と、彼にうまく担《かつ》がれているとは知らぬ王老師《おうろうし》とは、医師の手当《てあて》の甲斐《かい》あって間もなく前後して、目を覚ました。
「人払いだ」
 醤は、目が覚《さ》めるや、大声を発した。
 居候《いそうろう》なりとはいえ、今を時めくABCDS株式国家のC支店長の号令である。それに愕《おどろ》いて医師は診察鞄をそこに忘れて立ち上ると、部屋附のボーイは、出かかった嚏《くさめ》を途中で停めて部屋を出た。
「ああ、王老師。どこへ行かれる」
「人払いじゃ」
「ああ、王老師はここに居て頂《いただ》かねばなりません。そうでないと、話が出来ません」
「するとわしは人の部類に入らない訳じゃな。やれやれ情けない」
 老師は、無理やりにお臀《しり》に刺された睡眠解下剤《すいみんかいげざい》の注射のあとがまだ痛むので、すこし不機嫌であった。
「なに用じゃ、醤どの」
 老師は、腰がだるくて仕方がないが、立ったままでものをいう。
「何よりもまず、余が依存《いぞん》いたすことは、老師の手腕と、この某国大使館における始末機関の偉力《いりょく》とですぞ。昨夜は失敗しましたが、今日は十分に駆使《くし》して、金博士を綺麗に始末していただきたい。大丈夫でしょうな」
「商売熱心なるその言葉、恐れ入ったぞ。今日こそは、始末機関をフルに働かして、邪弟《じゃてい》金の奴を片づけてしまうであろう」
「いや、その御言葉で、余は安堵《あんど》しました。さあ、後は十分おくつろぎ下さい。ボーイを呼びましょう」
 醤は、ベッドの上に半身をねじって、枕許《まくらもと》の押釦《おしボタン》を押した。すると枕許のスタンドが、ふっと消えた。
「おや、これはボーイを呼ぶ押釦じゃなかったか」
 醤は、しまったという表情で、今度は壁からぶら下っている釦を押した。すると、とたんにがらがらというしたたかな雑音が聞え、続いてアナウンサー鶯嬢《おうじょう》の声で、
「……今日十六日の天気予報を申上げます。今日は一日中晴天が続きましょうから、空襲警報に御注意下さい。明日はまた天気は下《くだ》り模様《もよう》となり――」
 醤は、ふうッと猫のような叫び声を出して、部屋の隅のラジオ受信機のところまでいってスイッチを切った。
 王老師は、あきれたような顔で、
「ああ、アナウンサー鶯嬢も、どうかしているな。今日は十五日であるのを、十六日といいまちがえた。近頃の若い者は、熱心が足りない」
「老師、今日は十六日ですよ。余の腹心の部下からの報告があったから、まちがいなしですわ」
「そんなことはない。醤どのは、算術を忘れてしまわれたか。十四日の次は十五日であるが、決して十六日ではない」
「いや、老師、私たちは、一日|余計《よけい》に睡ったのですよ。部下の報告から推《お》して考えると、金博士を睡らせる睡眠瓦斯《すいみんガス》が、余と老師とにも作用した結果です」
「そんなことはない」
「いや、そうです。われわれ二人は、金博士が睡ったかどうかをみるために、うっかり金博士の部屋に入ったではありませんか、あのときあの部屋に残っていた睡眠瓦斯を、われわれが吸いこんだのです。そして足かけ二日間に亘りばかばかしく睡りこんだ……」
「ああ、そうか。いや、それにしても四十幾時間も睡るわけがない。わしの調合《ちょうごう》によれば、せいぜい前後十時間ぐらいは睡るように薬の濃度《のうど》を決めたつもりじゃったが……」
「しかし結果は、このとおり四十二時間も効《き》いたのです。ねえ、王老師、失礼なが
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