に浮いてしまって、さびついた赤い船底までがにょっきり上にあがってきた。それと反対に、船尾の方はまったく氷の下に隠れてしまった。いまや若鷹丸は沈没の直前にあった。
「あ、危い。――もう駄目だ。皆、下りろ、早く!」
 大月大佐は舷《ふなばた》につかまったまま、船内にむかって怒鳴《どな》った。


   沈没


「おいどうした。皆、早く甲板へ駈《か》けあがれ。そして氷の上にとびおりろ。おい、どうしたんだ」
 無電室へとびこんだ隊員たちは、だれ一人として姿《すがた》をあらわさなかった。ただ、よいしょよいしょという掛け声だけがする。
 隊員たちは、いまや決死の覚悟で無電装置を搬《はこ》びだしているところらしい。
「これはいけない。皆逃げおくれてしまうぞ」
 大月大佐は舷《ふなばた》をはなれて、無電室の方へ匍《は》いよった。そのときは氷原がもうわずかに目の下一メートルばかりに見えた。
「おい皆、早く逃げろ。無電装置よりは人命の方が大事だぞ」
 その声が無電装置をうごかすのに夢中の隊員の耳にやっと通じたものか、おうという返事があった。
「おい、最後の努力だ。さあ力を合わせて、そら、よいしょ」
 どどどどっという足音とともに、嬉しや無電室から大勢の姿があらわれた。彼等が周囲からささえているのは、最後まで望みを捨てなかった無電装置だ。
 彼等は室外に出ると、只ならぬあたりの光景に気づいて、一せいにうむと呻《うな》った。いつも見なれてきた平らな甲板は、今は立て板《いた》のように傾いている。またずっと下にあった氷原が、手にふれんばかりの近さに盛りあがっている。
「おい、もう一秒も余すところがないぞ。思いきって氷上にとびおりろ」
 と大月大佐は必死になって怒鳴った。
「わっ、――」
 一同は無電装置を舷から外に押しだした。そいつはうまく氷の上にひっかかった。その代り隊員の姿は氷の下に隠れた。
「おい、なにをぐずぐずしているんだ。船首の方へ匍いあがれ。そして氷にとびつくんだ」
 大佐は手すりにぶらさがって叫んだ。
 もういけない。めりめりという船腹をくだく物凄い音響だ。これに入り乱れて、氷片を交えた北極の黒い海水が、ごぼごぼと下から泡《あわ》をふいて湧《わ》きあがる。
 逃げそこねた隊員は、最後の力をふりだして、滑《すべ》る甲板をよじのぼる。
 黒影《こくえい》が一つ、また一つ、氷上《ひょうじょう》にとびだしてゆく。
「もういないか、誰だ、残っているのは」
 大月大佐は、隊員の身の上を心配して、まだ舷の手すりにつかまっている。危険きわまりない芸当だった。ただ大佐は船首に近い位置にうつっていたので、残った隊員よりはずっと氷の上に出ていた。
「隊長、あぶないです。もうとびおりて下さい」
 氷上では、無事に避難した隊員が手をふりながら、口々に大月大佐に飛びおりるようにすすめる。
「まだ誰か残っている。もう二人いる。おい頑張れ。俺は、お前たちが出ないまでは、ここにつかまって見ているぞ」
 隊長大月大佐は一身を犠牲にして、逃げおくれた二人の隊員を元気づけた。
「おお、ううん、ううん」
 二人の隊員は隊長の声に元気づいた。そして無我夢中で断崖《だんがい》のように見える傾いた甲板をよじのぼった。
「もう一息だ。それ、頑張れ。一木に二村!」
 隊長の声は、ますます大きくなる。
「よ、よいしょ。うぬっ!」
 とうとう一木が氷上にとびついた。つづいて二村が飛んだ。
 そのころ、まるで棒立ちになった若鷹丸は、そのまま矢のように海中に沈んでいった。
「あっ、隊長、危い!」
 隊員たちが異口同音《いくどうおん》に叫んで、手で眼を蔽《おお》ったとき大月大佐の巨体は、もんどりうって氷上に転がった。
 と、それと入れ替えのように、若鷹丸の船影は、全く氷上から姿を消し、海底ふかく沈没してしまった。
 もう五秒も遅れると、大月大佐の身体は船体もろともに、氷の下にひきずりこまれたであろう。全く間一髪という危いところで大佐の生命は救われた。隊員おもいの大佐に、神様が救いの手をさしのべたせいであろう。
 丁坊はこの息づまるような避難作業の一部始終を、魅《み》いられるように氷上でみつめていたが、隊長が最後に救われたと知った瞬間、両眼から涙がどっと湧《わ》いてきて、眼の前がまったく見えなくなってしまった。
 なんという感激すべき人達だろう。さすが日本人だ。


   天幕生活《テントせいかつ》


 若鷹丸の沈んだ跡は、しばらくのうちは氷が船の形に明いていて、黒い水が淀《よど》んでいたけれど、そのうちにどこからともなく氷片がぶくぶくと浮いて来て、次第に白く蔽《おお》われていった。
 氷上には、早速《さっそく》天幕《テント》が急造された。大きいのが一つに、小さいのが三つできた。
 大きい方には、大月大佐以下二十名の隊員が入り、小さい三つの天幕には、陸あげされた器械や器具などが入れられた。
 大月大佐は、大きい天幕の中に新しくつくられた席に腰をおろすと、
「おい、さっきの空魔艦から降ってきた日本少年をひっぱってこい」
 と命じた。
 達磨《だるま》のような姿の丁坊は、左右から二人の隊員によってひっさげられ、隊長の前にひきすえられた。
「どうだ、丁坊――といったな。若鷹丸はとうとう沈んでしまった。お前はいい気持だろう」
「えっ、なんですって」
 丁坊は自分の耳をうたがって、大佐の言葉を聞きかえした。
「お前は、いい気持だろうというんだ」
「すこしもいい気持ではありません。僕、たいへん口惜《くや》しいです。隊長そんなことを、なぜ僕にいうのですか」
 すると大月大佐は、少年の顔をぐっと睨《にら》みつけて、
「お前にはよく分っているじゃないか。お前は空魔艦の廻《まわ》し者だ。そして若鷹丸を沈めにきたということはよく分っている」
「なんですって、隊長さん。ぼ、僕は日本人ですよ、空魔艦に攫《さら》われた者ですよ。空魔艦を恨《うら》んでも、どうして同国人である隊長さんなどに恨《うら》みをもちましょう」
「ごま化してはいけない。じゃあ聞くが、なぜ空魔艦はお前をこの若鷹丸の難破しているところへ落下傘で下ろしたのだ。その理由を説明したまえ」
 丁坊はそういう風なことを聞かれて、全く困ってしまった。大佐は自分のことを空魔艦の廻し者だと思って、気をゆるさないのだ。


   秘密の仕掛


「僕、なんにも知らないのです。なぜこんなところに下ろされたか知らないのです。もし知っていれば同じ日本人の隊長さん方に喋《しゃべ》りますとも」
「いや、儂《わし》には、お前が本当に日本人かどうかということが分らないのだ」
「ええっ、僕が日本人でないかも知れないというのですか。ああ、そんな馬鹿なことがあるものですか。僕は立派な日本人です」
 丁坊はわっと泣きだした。そうであろう。そのくやしさは尤《もっと》もだった。日本人が日本人でないと疑われるくらい情けないことがあろうか。
 大月大佐は、丁坊の眼からぼたぼた流れる涙をしばらく見つめていたが、やがて、
「――お前が日本人であることがはっきりわかるか、それとも空魔艦がなぜお前を下ろしたかその理由《わけ》が分るか、そのどっちかが分らない間は安心《あんしん》していられないのだ」
 と云って溜息《ためいき》をついた。
 丁坊が日本人であることは、丁坊自身ばかりではなく、読者もよく知っている筈だ。しかし読者がもし丁坊のような場合にであったとしたら、どうして見ずしらずの他人の前に出て、自分は日本人だという証明をなさるであろうか。なんでもないように見えて、それはなかなかむずかしいことだ。
 もう一つ、空魔艦がなぜ丁坊を下ろしたかという疑問は、これは空魔艦の幹部にきいてみないと分らない。
 しかしそれは、いま空魔艦のなかでどんな光景がひろげられているかを説明すれば、容易にわかることだった。
 ではその方へ、物語を移してみよう。
 ここは例の氷庫《こおりぐら》の前の、空魔艦の根拠地であった。
 丁坊をとらえた方の空魔艦「足の骨」の機長室では「笑い熊」と称《よ》ばれる機長が、マスクをしたまま一つの機械をいじっている。そのまわりには、六七人の幹部のほかに、中国人チンセイも加わって機械を注視している。
「こっちの機械はよく働いているんだから、もうそろそろ聞えてきてもいい筈だ」
 と「笑い熊」はいった。
 暫《しばら》くすると、その機械から、ぼそぼそと語りあう話声がきこえてきた。
「笑い熊」は緊張して、機械の目盛盤《めもりばん》をしきりに合わせた。
“隊長さん。なぜあなたがたは、こんな北極まで探険にこられたのですか。その目的はどんなことなのですか”
 そういう声は、紛《まぎ》れもなく丁坊の声であった。なぜ丁坊の声がきこえてくるのか。
“お前が日本人なら聞かしてもいいことなんだが――”
 という声は、たしかに隊長大月大佐の声であった。「笑い熊」はマスクの中《なか》でにやりと笑って、
「いよいよ喋《しゃべ》りだしたぞ。あっはっはっ、探険隊の奴らも小伜《こせがれ》も、まさかあの小伜の身体を包んだゴム袋の中に、無線電話機が隠してあるとは気がつかなかろう。見ていたまえ。いまに俺たちの知りたい探険隊の秘密の目的やなにかも、どんどん向うで喋ってくれるぞ。そうすればわが空魔艦の活動も、たいへん楽になる。うふふふ」
 驚くべきことを、「笑い熊」は云った。丁坊の身体を包《つつ》んだゴム袋の中に、無線電話機が入っているというのだ。もちろん丁坊も知らなければ、隊長大月大佐もこれを知らない。そしてこれが恐るべき空魔艦の一味に盗み聞かれるとは知らず、大佐はだんだんと重大な話を隠されたマイクロフォンの前に始めようとする。ああ危《あぶな》い危い。


   重い使命


 空魔艦「足の骨」の船内では、隊長「笑い熊」をはじめとし、主脳部の連中がそろって高声器の前へあつまっていた。それはいましも、水上の探険隊長大月大佐と丁坊少年の重大なる話が始まるところだったからである。
「丁坊。お前が熱心な愛国心をもった日本人だということはよく分った。では、わが探険隊の目的というのを教えてやろうよ」
 と、これは大月大佐の声だった。
「ああ、隊長さんとうとう分ってくれたのですね。僕はこんなに嬉しいことはない。さあ聞かせてください。こんな極地へ探険にやってきた目的というのを」
 と、これは丁坊の声である。
 いよいよ重大な秘密が洩《も》れそうである。氷上の探険隊員は誰一人として、この会話がそのままそっくり空魔艦の高声器から響きわたっているとは知らない。
 その高声器の前へ、怪人隊長「笑い熊」は章魚《たこ》のようなマスクをかぶった顔を近づける。
「――じゃあ丁坊。よく聞け。これは大秘密だがお前も知ってのとおり、このごろ北極に近い地方に、恐ろしい大型の飛行機をもった国籍不明の団体が集っていて、なにかしきりに高級な研究をやっているという情報が入った。北極のことなんかどうでもよいという人が多いのだけれど、儂《わし》はそれを聞いてびっくりした。というわけは、昔はこの氷の張りつめた北極地方はほとんど船で乗りきることができないので、交通路として三文の値打もなかった。ところが近年航空機がすばらしい発達をとげてからというものは、なにも氷をわけてゆかなくとも空を飛行機で飛べば、この北極地方を通りぬけられるという見込がついた。しかしこの北極航空にはまだいろいろ問題がある。そういう非常に寒いところでは、エンジンも電池もすっかり働きがわるくなるし、お天気などのこともよく分っていないし、飛行機に使っている金属材料もたいへん折れやすくなるなどという風に、いろいろと困ったことや分らないことがあるのだ。だから飛行機さえ持っていれば、極地をかんたんに飛びこえられると思うのは間違いである。わかるだろうね、丁坊」
「ええ、分りますとも」
「例の国籍不明の団体は、空魔艦によってこの北極にのりこみ、いろいろと研究を始めているらしい。その研究も、なかなか油断のならぬ研究であることは、空魔艦がとき
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