。いま空魔艦は、だんだん高度を下げながら一つところをぐるぐる廻って飛んでいるようだ。
「おお、あれは何だ」
 そのとき丁坊の眼に入ったものはなんであったか?
「船だ、船だ!」
 それは船であった。氷原の真只中《まっただなか》に、氷にとざされて傾いている巨船であった。
 ああ北極の難破船《なんぱせん》! あれが着陸地らしい。
 なぜ丁坊は、そんなところへ、ただ一人で下ろされるのか!
 いよいよ奇怪な空魔艦の行動であった。


   吊《つ》り綱《づな》


 空魔艦の上から、一本の綱でもって宙につりさげられた丁坊は、気が気ではない。
 丁坊の身体こそは温い毛皮で手も足も出ないように包まれているけれど、顔はむきだしになっていて、氷のような風がびゅうびゅうと頬《ほっ》ぺたをうつ。顔一面がこわばってしまって、すっかり感じがなくなり、まるで他人《ひと》の顔のような気がするのであった。
 下はまっしろに凍《こお》りついた氷原《ひょうげん》である。
ものの形らしいのは、氷上の難破船一つであった。
「あれはどこの国の船だろうかなあ」
 もちろん檣《マスト》には、どこの国の船だかを語る旗もあがっていず、太い帆げたも、たるんだ帆綱《ほづな》もまるで綿でつつんだように氷柱《つらら》がついている。
 丁坊をつりさげた綱は風にあおられて、いまにもぷつりと切れそうだ。切れたが最後《さいご》、いのちがない。なにしろ氷上までは少なくとも七八百メートルはあるだろう。綱が切れれば、身体は弾丸のように落ちていって、かたい氷にぶつかり、紙のように潰《つぶ》れてしまうであろう。
 迫《せま》ってくるこわさに、ともすれば丁坊の気は遠くなりそうだ。目まいがする。頭はずきんずきんと痛む。
「これはとても生命はないらしい。空魔艦の乗組員はひどいやつだ」
 丁坊は、曲らない首をしいて曲げて、上を見た。空魔艦は悠々と上空をとんでいる。
「おや、また綱をくりだしているぞ」
 丁坊が出てきた窓のところから四五人のマスクをした顔がのぞいている。そしてにゅっと出た手が、しきりに綱を下へおろしている。
「いくら綱をおろしたって、とても氷の上にはいかないのに」
 そう思っているうちに、丁坊の身体は急に猛烈なスピードでどっと落下をはじめた。
「あッ、綱が切れたんだ」
 丁坊は愕《おどろ》きのため息がつまった。目を開こうと思ってもしばらくは目があかなかった。いよいよもうおしまいだ。「笑い熊」機長の大うそつきめ!
 この間《かん》数十秒というものは、丁坊が生れてはじめて味わった恐ろしさであった。
 だが、これでいよいよ自分は死ぬんだなと覚悟がつくと、こんどは急に気が楽になった。そして変なことだが、なんだかたいへん可笑《おか》しくなった。あっはっはっと笑いだしたいような気持におそわれた。
「――おや、僕は気が変になるんだな」
 気が変になるなんて、なんて情《なさけ》ないことだろうと、丁坊は歯をくいしばって残念がった。
「どうにでもなれ。これ以上、自分としてはどうすることもないんだ」
 丁坊はすべてを諦《あきら》めて、そしてこの上は、せめて日本人らしく笑って死のうと思った。ただしかし、東京にいるお母さんに会えないで死《し》ぬことが悲《かな》しい――。


   落下傘《らっかさん》


 死の神の囁《ささや》きが、丁坊の耳にきこえてきた。
「いよいよ最期《さいご》がきた。――」
と思った丁度《ちょうど》そのとたんの出来事だった。彼の身体は、急に上へひきあげられたように感じた。
「おや、――」
 びっくりして、彼は空を見上げた。
 空には、まっすぐに伸びた綱の上に、白い菊の花のような大きな傘がうつくしく開いていた。丁坊ははじめて万事《ばんじ》をさとった。
「あれは落下傘《らっかさん》だ」
 助かった助かった。落下傘のおかげで、危《あやう》い一命をたすかった。綱のさきには落下傘がついている。
「ああ、よかった。僕はすこしあわて者だったね」
 急に気がしっかりしてきた。
 空を見上げると、空魔艦はどこへ飛びさったか、あの大きな翼も見えないし、エンジンの音も聞えない。
 眼をひるがえして下を見ると、おお氷原はすぐそこに見える。難破船が急に大きくなって眼にうつった。
 ここにいたって丁坊は、機長「笑い熊」の考えがさっぱり分らなくなった。大悪人《だいあくにん》だと今の今まで思っていたが、落下傘をつけて放すようでは、善人《ぜんにん》である。
「いや、善人といえるかどうか。なにしろ下が東京の銀座とか日比谷公園でもあるのならともかく、氷点下何十度という無人境《むじんきょう》なんだ。そんなところへ落下傘でおろすような奴《やつ》は、やっぱり善人ではない」
 そうすると、やっぱり「笑い熊」を憎んだ方が正しいのであろうか。丁坊
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