らくは目があかなかった。いよいよもうおしまいだ。「笑い熊」機長の大うそつきめ!
 この間《かん》数十秒というものは、丁坊が生れてはじめて味わった恐ろしさであった。
 だが、これでいよいよ自分は死ぬんだなと覚悟がつくと、こんどは急に気が楽になった。そして変なことだが、なんだかたいへん可笑《おか》しくなった。あっはっはっと笑いだしたいような気持におそわれた。
「――おや、僕は気が変になるんだな」
 気が変になるなんて、なんて情《なさけ》ないことだろうと、丁坊は歯をくいしばって残念がった。
「どうにでもなれ。これ以上、自分としてはどうすることもないんだ」
 丁坊はすべてを諦《あきら》めて、そしてこの上は、せめて日本人らしく笑って死のうと思った。ただしかし、東京にいるお母さんに会えないで死《し》ぬことが悲《かな》しい――。


   落下傘《らっかさん》


 死の神の囁《ささや》きが、丁坊の耳にきこえてきた。
「いよいよ最期《さいご》がきた。――」
と思った丁度《ちょうど》そのとたんの出来事だった。彼の身体は、急に上へひきあげられたように感じた。
「おや、――」
 びっくりして、彼は空を見上げた。
 空には、まっすぐに伸びた綱の上に、白い菊の花のような大きな傘がうつくしく開いていた。丁坊ははじめて万事《ばんじ》をさとった。
「あれは落下傘《らっかさん》だ」
 助かった助かった。落下傘のおかげで、危《あやう》い一命をたすかった。綱のさきには落下傘がついている。
「ああ、よかった。僕はすこしあわて者だったね」
 急に気がしっかりしてきた。
 空を見上げると、空魔艦はどこへ飛びさったか、あの大きな翼も見えないし、エンジンの音も聞えない。
 眼をひるがえして下を見ると、おお氷原はすぐそこに見える。難破船が急に大きくなって眼にうつった。
 ここにいたって丁坊は、機長「笑い熊」の考えがさっぱり分らなくなった。大悪人《だいあくにん》だと今の今まで思っていたが、落下傘をつけて放すようでは、善人《ぜんにん》である。
「いや、善人といえるかどうか。なにしろ下が東京の銀座とか日比谷公園でもあるのならともかく、氷点下何十度という無人境《むじんきょう》なんだ。そんなところへ落下傘でおろすような奴《やつ》は、やっぱり善人ではない」
 そうすると、やっぱり「笑い熊」を憎んだ方が正しいのであろうか。丁坊
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