は、側《そば》で聞いていて、かなりうるさいいびきだったが、きょうばかりは、そのいびきが三郎を元気づけた。
「ああ艇長は、どうしていられるのかしら」
三郎は、急に艇長のことが心配になったものだから、仕切りの扉のところへいって、そのうえをどんどんと叩《たた》いた。
「艇長、どうしておられますか。異状はありませんか。辻艇長!」
三郎は、大声でどなった。
だが、仕切りの扉の向こうから聞えるものは、あいかわらず、ほらの貝をふきたてるような艇長のいびきだけであった。
「艇長、艇長。重力装置が停まっていますが、そっちには異状ありませんか」
どんどんどん。
三郎は、やけになって、扉を叩いた。すると、
「あっ、ああーっ」
艇長の、のびをする声がきこえた。
ところが、この声は、寝床のうえから聞えず、とんでもないところから聞えたから、三郎は、面《めん》くらった。それは、どう考えても、仕切りの扉のすぐ裏のところで、しかも天井とすれすれまでにのぼっていられるようにしか考えられなかった。
「艇長、大丈夫ですか」
「なんだ、どうしたのか。わしの寝床を、どこへ持っていったか」
艇長は怒っていられる。
「艇長。只今《ただいま》、重力装置が故障であります」
「なに、重力装置の故障か。それは……」
といいかけたとたん、三郎の身体は、急に目に見えないもののために、すがりつかれたような気がした。
ぴしゃん! 室内は、もうもうと煙立つ。煙ではない湯気であった。
(重力装置が直ったんだな)
と、三郎の頭の中に、そのことが稲妻《いなずま》のようにひらめいたが、とたんに、横の仕切りの扉の向こうに大きなもの音があった。
どすーん。床が、びりびりと震動した。
(あっ、艇長が天井から墜落されたのでなかろうか)
三郎は、あの大きなもの音こそ、艇長の大きなからだが床をうった音だと思った。
「艇長。どうされました」
「ああ風間か。わしのことなら、大丈夫じゃ。今、下におりる」
下におりる。
艇長の声は、三郎の考えていたのとはちがって、やはり天井の方からきこえた。
仕切りの扉が、細目にあいた。そして艇長の顔が、鴨居《かもい》のところから、こっちをのぞいた。
「ああ、艇長。よく、お落ちになりませんでしたねえ」
と、三郎がため息をつくと、艇長は、仕切りの扉をぎしぎしならしながら、それを伝って下へおりながら、
「あはは。艇長が落ちたりして、どうするものか。ちゃんと棚《たな》の上に手をかけて、つかまっていたよ」
「でも、さっき大きい音がしましたねえ。艇長が落ちられたのにちがいないと思いました。すると、あの音は、何の音だったんでしょうか」
「ああ、あの音かい」
と、艇長は、下へおりて、ほこりの手をはらいながら、うしろをふりかえって、
「あの音は、そこに転《ころ》がっている鞄《かばん》だよ。棚から、すこしはみだしていたところへ、重力が加わったから、落ちたのさ。わしが落ちたら、あれくらいの音じゃすまないよ。わははは、まあとにかくわしも起きるとしよう」
艇長は、ゆうゆうと服を着かえだした。
「おい風間、お前は知らんだろうが、今日はこの噴行艇から、とてもめずらしいものが見えるぞ。宇宙旅行の、ほんとうの味は、今日はじめて出てくるといっていいのだ。おい、わしの話を聞いて、ちっとは悦《よろこ》べよ」
艇長は、けげんな顔の三郎をかるくからかった。
当直の報告
「艇長。そのめずらしいものとは、一たいどんなものですか。早くおしえてください。ぼく、早くききたくてしようがないなあ」
風間三郎は、すこし鼻にかかったこえで、艇長にねだった。
「はははは。それをききたいのか。まあ、今話をしてしまっちゃ、あとでおもしろくない。いずれ、そのうちに、みんなさわぎだすだろうから、まあ、それまでまっていたがよい」
艇長は、卓子《テーブル》の前へきて、椅子に腰をかけた。
「艇夫。それよりも、コーヒーだ」
「コーヒーは、今、やりなおしています。重力装置の故障のとき、すっかりこぼれてしまったんです」
「そうか。それはもったいないことをした」
「艇長。コーヒーがわくあいだに、話をしてくださってもいいでしょう」
「はははは。お前はなかなか、うまいことをいって、ききだそうとする。しかし、だめだよ。コーヒーがわくあいだに、わしは地球儀をかくことにしよう。たしか、印度洋《インドよう》のへんまで、かいたおぼえがある」
そういって艇長は、ゴム風船の入った箱を、卓子のうえへもってきて、片手に絵筆をにぎつた。それから艇長の手が、器用にうごきはじめる。
そうなっては、もうしかたがない。風間三郎は、コーヒー沸しの前へすわって、その口からゆらゆらとたちのぼる湯気をじっと見つめている。
室内がいやに、しずかになった。コーヒー沸しのふたも、まだおとなしくしている。
(一体、なんだろうなあ、めずらしいものというのは?)
三郎が、いやに考えこんでいたとき、天井につけてあった呼鈴《よびりん》が、ぶうぶうぶうと鳴りだした。それは艇長をよびだしている信号音であった。
「艇長、電話です」
三郎がいうと、地球儀のうえに筆をはこんでいた艇長は、やおら顔をあげ、
「そうらしいね。はい、艇長は電話にかかった」
“はい、艇長は電話にかかった”――ということばは一種の暗合であった。そういうことばをいうと、スイッチが、高声器の方へ切りかえられるのであった。スイッチを手で切りかえるかわりに“ハイ、艇長は電話にかかった”といえば、スイッチが切りかえられるのである。
むかし、岩の前に立って、“開けゴマ”とさけぶと、岩が二つにわれて、その間から入口があらわれるという話があるが、今はそれと同じことをやって、スイッチを切りかえられるのだった。これを、音波利用のスイッチという。
高声器から、ぷっぷっという雑音が出てきたと思ったら、とたんに大きい当直長のこえがとびだした。
「艇長。只今、地球が夜明けになりました、どんどん夜が明けております」
「ああそうか」
「雲があるようですが、相当うつくしい輝いて見えます。おわり」
「ああそうか。ご苦労」
当直長のこえは、高声器の中に引込んでしまった。
「どうだ。今の電話をきいたろう」
艇長が三郎にこえをかけた。
「あ、今の電話ですか。地球が夜明けだというんですね。そんなことは、一向《いっこう》めずらしいとは思いません」
三郎は、なあんだという顔をした。
「はははは。一向めずらしくないというのか。めずらしいかめずらしくないか今見せてやるから、それを見たうえのことだ」
そういうと艇長は、壁の釦《ボタン》を押した。
すると、二メートル四方ほどの壁ががたんと下におちた。壁の奥には、精巧なテレビジョン装置が、はめこんであったのである。これを使えば、中にいながち、艇の外が手にとるようにはっきり見える。
地球が見える
艇長は、例の器用な手つきで、テレビジョン装置についている五つの目盛盤をしきりに合わしていたが、やがて小さなスイッチをぽんといれると、映写幕がぱっとあかるくなった。
映写幕は、約一メートル平方の大きさであった。そのうえに、なんだか銀色にかがやく櫛《くし》のようなものがあった。
艇長は、それをみながら、また更に目盛盤を、うごかした。すると、映写幕のうえの像が急にはっきりしてきた。
「ほら、うまく出てきた。これが地球の夜明けだ。いや、夜明けは、この端《はし》のところだけで、きらきら光っているところは、もうすっかり朝になっている」
「えっ、地球が見えているんですか、なんだか銀の櫛みたいだなあ」
「よく見なさい。まっ黒な宇宙を丸く区切って、ここに地球の輪廓《りんかく》が見える」
なるほど、それはたしかに見える。西瓜《すいか》を二倍大にひきのばしたくらいの大きさであった。
「分ったかね。これが、われわれのうしろにとおざかっていく地球だ。地球が、今日は満月のように丸く輝いてみえるのだ。ほら、どんどん輝いている面積が広くなっていく」
どういうわけか、どんどんひろがっていくのであった。それは、地球の重力がとどかない遠方に、この噴行艇が出てしまったために、それで地球が早く廻って見えるのだと、あとで分った。
輝く地球は、全くものすごい。ながく見ていると、身体がさむくなってくるような感じであった。
「見ていると、身体が、ぞくぞくしてきますね」
三郎は、いつわりのない感想をのべた。
「ああ、もうずいぶん遠く離れたという感じだねえ」
艇長は、距離のことを考えている。
「月は、どのくらいに見えますか」
「そうだねえ。月がこの噴行艇のそばへ廻ってくれば、これよりももっと大きく見えるはずだよ。おい艇夫。コーヒーが、ぷうぷうふいているじゃないか」
「あっ、コーヒーのことを忘れていた」
三郎は、大いそぎで、コーヒーのところへとってかえした。
「ああっ、少しで、コーヒーをまたやりそこなうところでした」
三郎は、卓子《テーブル》のうえで、コーヒーを注《つ》いで出した。
艇長は、テレビジョン装置のスイッチを切って、壁を元どおりにし、コーヒーをのむために卓子についた。
「ほう、これはよくわいている。あちち」
艇長は、コーヒー茶碗《ぢゃわん》のふちで、口をやいたので、あわててそれをがちゃんと下においた。そのありさまがとてもおかしかったが、三郎はふきだすのをがまんした。艇長さんのことを、あまり笑うものではないからである。
「こんな宇宙のまん中で、コーヒーがのめるなんて、ありがたいことだ」
艇長は、コーヒーをふきながら、ひまつぶしにそんなことをいった。コーヒーは、なかなかさめなかった。
そのときであった。噴行艇は、ものすごい音をたてて震動した。今にも、艇はばらばらに壊れそうなくらいに、がんがんびしびしと鳴りだした。
「やっ、どうした?」
艇長が立ち上るのと、非常電話器から、当直長のこえがとびだすのと、同時であった。
「艇長。非常報告。只今本艇に向けて、宇宙塵《うちゅうじん》が雹《ひょう》のように襲来しました。損害調査中です」
宇宙塵? 宇宙塵とは、何であろうか。
宇宙塵《うちゅうじん》
震動は、すこし止《や》んだかと思うと、またばらばらがんがんと、ひどくゆれた。
「宇宙塵か。相当ひどい宇宙塵だ」
艇長は、壁のところへとんでいって、棚から帽子を出して、かぶった。
「お出かけになりますか」
「うん、司令室へ入る」
「宇宙塵とは、なんですか」
「そんなことは、誰《だれ》か他の者に聞け。今、それを説明しているひまはない」
そうでもあろう。
艇長は、室を横ぎって、出入口の方へ。
「艇長。コーヒーはおのみになりませんか」
「おお、そうだ。コーヒーをのもうと思っていて、忘れていた。おれも、よほどあわてたらしいね」
そういいながら、艇長は卓子《テーブル》のところへひきかえしてきたが、とたんに大きなこえでどなった。
「なあんだ。コーヒーは、みんな茶碗の外にこぼれてしまったじゃないか。艇夫、こんど、わしが戻ってきたら、そのときはすぐコーヒーをのませるんだぞ」
「へーい。どうもお気の毒さまで……」
「わしは今日、コーヒーにたたられているようじゃ」
艇長は、朗《ほがら》かなこえをのこして、室外へとびだしていった。
震動は、いいあんばいに、ようやくとまったようである。
三郎は、雑巾《ぞうきん》で卓子のうえをふきながら、
「はて、宇宙塵とは、どんなものだろうねえ」
と、ふしぎそうに、首をかしげて、卓子のうえの同じところをいくどもふいている。
そのころ、廊下が、いやにさわがしくなった。大ぜいが、靴音もあらあらしく、かけていく様子である。
三郎は、不安な気持になって、出入口の外に顔を出した。
「おう、鳥原さん。なんです。このさわぎは……」
ちょうど幸いに、三郎は、日頃兄のように尊敬している艇夫の鳥原青年が通りかかったのでいそいでこえをかけた。
「やあ、風間の三《さ》ぶちゃんか」
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