事務長は電文を読みだした。
「貴艇内に、共産党員太平洋委員長ケレンコおよび潜水将校リーロフの両人が乗りこんだ。監視を怠るな。マニラにて両人の下艇をもとめよ。あとの太平洋飛行は危険につき、当方より命令するまで中止せよ」
事務長の顔は、真青になった。
艇長ダン大佐の眉に心配の皺《しわ》がよった。
「どういたしましょう」
「飛行中、この飛行艇を爆破されるおそれがある。困った」
「しかし艇長、その無電は間違いではないでしょうか。ケレンコにリーロフなんて、そんな名前は艇客名簿にのっていません」
「いずれ変名をしているんだろう。まずその両人を見つけることが第一だ」
さっきから、この会話を聞いていた太刀川の眼が、きらりと光って、向こうの隅に睡っている酔っぱらいリキーと老夫人ケントのうえに落ちて、じっとうごかなくなった。
太平洋横断の、しずかなる空の旅とおもっていたが、いまやこのサウス・クリパー機上の百人近い命は、最大危険にさらされていることがわかったのである。
ニューヨーク本社が慄えあがった共産党員太平洋委員長ケレンコとは、一体何者であろうか。彼は何を画策しているのであろうか。
帝国の国防のため重大使命をおびている武侠の青年太刀川時夫は、はからずもたいへんな飛行艇の中に乗りこんだものである。
さあ、どうなる? 太平洋横断の飛行艇サウス・クリパー機の運命は!
大捜査
おそろしい二人の共産党員が、このサウス・クリパー艇の乗客のなかに、名を変えてまぎれこんでいるというのである。
一体だれが共産党太平洋委員長ケレンコであり、まただれが潜水将校リーロフなのであろうか。
太刀川時夫は、空気ぬきのパイプから洩れてくる艇長室の声に、じっと耳をかたむけている。
「おい、事務長」
ダン艇長の声だ。それはなにごとか決心したらしい強い声だった。
「はい、艇長」
別の声だ。
「とにかく今からすぐ手わけして、ケレンコとリーロフの二人をさがし出そう」
「はい、かしこまりました。では早速……」
「うん、ひとつがんばってくれ。だがわれわれが凶悪な共産党員をさがしているんだということを、誰にも気どられないように注意しろよ。万一、奴らに気づかれて、その場であばれだされると、危険だからね。この飛行艇が、マニラにつくまでは、あくまで知らぬふりをしておくことが大切だ」
「よくわかりました。ではすぐ艇内をさがす捜索隊の顔ぶれをきめましょう」
「うん、うまくやってくれ」
その後は、声が急に低くなって、聞きとれなかった。
それから十五分ほどすると、捜索隊の顔ぶれがきまったのか、事務長が艇内の方々へ電話をかけはじめた。
秘密のうちに共産党員にたいし、戦いの火蓋が切られたのである。
当のケレンコとリーロフが、知っているかどうか知る由もないが、艇内はにわかに、重苦しい空気につつまれて行った。
太刀川時夫は、座席にふかく体をうずめたまま、じっとこらえていた。
(怪しい奴といえば、あの向こうの隅に睡りこけているケント老夫人と、酔っぱらいのリキーの二人組だが……)
太刀川は、どういうものか、二人組が気になって仕方がなかった。
(しかし待てよ。共産党員のケレンコとリーロフというのは、どっちも男だ。ところがあの二人は、一人は荒くれ男だけれども、もう一人の方はお婆さんではないか。するとこれは、別人かな)
と思ったが、それでもなお、彼はこの二人組から、目を放す気持にはなれなかった。
その時であった。
とつぜん防音扉が、ばたんとあいてどやどやと捜索隊がはいってきた。
(すわこそ!)
と、太刀川時夫は席から立ちあがろうとしたが、いやまてと、はやる心をおさえつけて、そのまま席に体をうずめた。
「ひどい奴だ。さあ、こっちへ来い」
隊長らしい艇員の一人が、声をあららげて、誰かを叱りとばした。
(さあ、始ったぞ。リキーの奴がひきたてられるのか!)
太刀川は、印度人夫妻の肩ごしに、その方に目を光らせたが、リキーは今目をさましたらしく、両腕を高く上にのばして、大あくびをしているところだった。
(あれ、リキーじゃないとすると、一体誰が叱られているんだろう?)
そのとき、隊長らしい艇員が後をふりむきざま、
「さあ、早くこっちへくるんだ」
といって、顔をまっ赤にして、一人の少年の首すじをつかんで、ひきずりだした。見ると、それは色のあせた浅黄《あさぎ》いろのズボンに、上半身はすっ裸という恰好の、中国人少年だった。
「貴様みたいな小僧に、この太平洋をむざむざ密航されてたまるものか。この野郎めが」
艇員は拳をあげて、少年の小さい頭をなぐった。
「ひーい」
少年は、悲鳴をあげた。
「なんだ、密航者か」
「ふとい奴だ」
「いや面白い。これは、いいたいくつしのぎだ」
乗客たちは、てんでに勝手なことをいって、さわぎだした。
「さあ、早く歩け」
密航少年
と、隊長の艇員は叱りつける。と突然、
「やかましいやい」
とリキーが座席から立ち上って、どなった。
「密航少年の一人ぐらいで、なんというさわぎをやってるんだ。俺がかわって片づけてやらあ。さあ、その小僧をこっちへよこせ」
リキーは、松の木のような太い腕をのばして、少年をぐいとつかんだ。
「ああ、ちょっとお待ちください。この少年の処分は、ダン艇長がいたしますから、どうかおかまいなく」
艇員の隊長は、腕節のつよそうなリキーに遠慮がちに、それでもいうだけのことをいった。
「おれはさっきから、頭がいたくてたまらないんだ。貴様がこの小僧をぴいぴい泣かせるものだから、頭痛がいよいよはげしくなってきたじゃないか。なあに、こいつを片づけるくらい、訳のないことだ。窓から外へおっぽりだせば、それですむじゃないか」
リキーは、たいへんなことを、平気でいった。そしてそれをすぐにもやりそうであった。
乗合わせている婦人たちは、さっと顔色をまっ青にした。
「まあ、ちょっとお待ちください。いま艇長に話をいたしますから」
「艇長なんかに用はない。そこを放せ」
ケント老夫人が、リキーをとめるだろうと思っていたのに、どうしたわけか、老夫人は知らぬ顔をしてそっぽを向いている。
このさわぎを、太刀川時夫はさっきからじっと眺めていた。はじめは冗談のおどかしかとおもっていたが、リキーが本当に、中国少年を飛行艇からなげだしそうなので、これは困ったことになったと思った。
密航するのは悪いにきまっている。しかしその罰に、命をとるというのは、無茶な話だ。可哀そうに、少年は、リキーの腕の中で手足をばたばたさせながら泣き出した。
(もう見ていられない。誰もたすけだす者がいなければ、一つ僕がリキーをとっちめてやろうか)
と、太刀川は考えた。リキーは、相当腕節が強そうだが、強い者が弱い者をいじめているのを日本人の血はどうしてもだまって見ていられないのだ。
彼は、拳をかためて、すくっと立ちあがった。その時、足もとでがたんと音がした。何かとおもって下をむくと、東京を出発するとき原大佐から贈られた例の太いステッキであった。
“待て太刀川!”
洋杖が、なにか囁いたようであった。
“お前の使命は、重大だぞ”
大佐が別れにのぞんで彼にいった言葉が思いだされた。
(そうだった。軽々しいことはできない)
太刀川は、一歩手前で、気がついた。彼の双肩には、祖国日本の運命がかかっているのだ。リキーと闘って勝てばいいが、もし負けて、中国少年同様、南シナ海になげこまれてしまえば、祖国への御奉公も、それまでではないか。
(といって、あの中国少年は見殺しには出来ない)
太刀川は、わが胸に問い、わが胸に答えながら、考えこんでいたが、何事を思いついたのか、
「そうだ」といって席をたった。
おそろしい制裁
ダン艇長は、隣室の騒ぎを、まだ知らなかった。太刀川が扉をひらいたので、はじめて気がついたようであったが、太刀川は立ちあがろうとするダン艇長を、すぐさま手まねで押しとどめて、そして扉をぴたりと閉じた。
どんな話が、艇長室のなかでとりかわされたかわからない。
だが、それから、一、二分のち、ダン艇長は間の扉をひらいて、さりげない風で、たけり立つリキーの前にやって来た。
「おさわがせして、あいすみませんでした。どうぞリキーさん、その少年をこっちへお渡しください」
艇長は、おそれ気もなく、リキーによびかけた。
「な、なんだ。うん、貴様は艇長だな。貴様たちが、あまりだらしないから、こういうことになるのだぞ。さあ、どけ、おれがじきじき、この密航者を片づけてやるのだ」[#「やるのだ」」は底本では「やるのだ」]
「ちょいとお待ちください。あなたは密航者密航者とおっしゃいますが、その密航者は、どこにおります?」
「なんだと!」リキーは、眉をぴくりとうごかした。
「密航者はどこにいるかって? この野郎、貴様の目は節穴か。よく見ろ、こいつを」
リキーは、熟柿のような顔をしながら、片腕にひっかかえた中国少年の頭を、こつんと殴った。
「あ、その少年のことですか。それなら密航者ではありません」
「何を、貴様、そんなうまいことをいって、おれはそんな手で胡魔化されないぞ」
「いえ、本当なのです。その少年の渡航料金は、ちゃんと支払われているのです」
「馬鹿をいうな。おれはそこにいる艇員が、密航者だといったのを聞いたのだ」
「いや、それは何かの間違いでございましょう。この少年の渡航料金はたしかにいただいてあります。艇長が申すのですから間違いありません」
「そんな筈はない。一体だれが渡航料を払ったのだ」
「だれでもかまいません。あなたには御関係のないことです」
「なにを。こいつが!」
叫びざま、リキーが艇長におどりかかろうとした時、
「リキー、その子供をお放しよ」
それまで隅っこに風呂敷のような布をかぶって、だまっていたケント老夫人が、かすれ声でたしなめた。
「ううん。ちぇっ」
リキーは舌うちしながら、にわかに見世物の象のようにおとなしくなった。それでも、なにかぶつぶついいながら、小脇にかかえこんでいた中国少年を、床のうえにどすんと放りだした。
「あっ」といって、中国少年は、その場に倒れた。
太刀川時夫は、そうなるのを待っていたかのように、前へすすみ出て、中国少年をおこしてやった。
「もう泣かないでもいい、こっちへおいで」
「?」
中国少年は、びっくりしたような顔をして、太刀川青年を見あげた。
「さあ、僕のとなりの四十九番の席にかけなさい」
太刀川は、汚れきった中国少年に眉一つゆがめず、やさしくいたわって、座席へつかせてやった。
太刀川は、ダン艇長にたのみ、料金を払って中国少年をたすけてやったのであった。
これで密航者の問題は無事におさまったが、おさまらないのは、厄介な酔っぱらいリキーであった、よろよろと立ち上ると突然、
「やい」
と叫んでどすんと腰を下した。
「やい、よくも貴様は、おれの邪魔をしやがったな。よーし、今にみていろ、吠面《ほえづら》をかかしてやるからな」
いいながら又立ち上ろうとする。と、ケント老夫人が又たしなめた。リキーはしぶしぶ腰を下したが、いまいましそうにこちらを睨みながら、時々何事かつぶやいていた。
太刀川は、たいへんなお客と乗り合わせたものだと思った。
中国少年は、彼にたすけられて、すっかり安心したものか、すやすやと安らかな鼾《いびき》をかきはじめた。
怪しい透視力
密航少年事件が、曲りなりにもおさまったので、ダン艇長は、艇員たちをつれて、自室にひきあげた。
「どうだい皆。二人組の共産党員の心あたりはついたかね」
「はい、私の受持の部屋には、怪しい者は見当りませんでした」
「私の受持でも、駄目でした」
「そうか。じゃあ、皆、獲物なしというわけだね」
ダン艇長の顔には、深い憂《うれい》の皺《しわ》がうかんだ。その時、
「艇長」
とよびかけたのは、事務長だった。
「何だ」
「あの本社からの秘密無電に、誤りがある
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