の模様によって、第二の行動をおこすことにしてくれたまえ」
「はい。誓って任務をやりとげます」
ここに太刀川青年は、特別任務を帯びて、謎の太平洋へ出発することとなった。
その前三週間、彼は短期ながら、偵察員としての特別の訓練をうけた。早くいえば探偵術を勉強したのである。
いよいよ出発の日、原大佐は太刀川青年をよんで、最後の激励の言葉をのべ、そのあとで、
「おい太刀川。君にぜひとも持ってゆかせたいものがある。これだ。これをもってゆけ」
といって、渡したものがあった。それはチョコレート色の太いステッキであった。
「これはステッキですね。ありがたく頂いてまいります」
「ちょっと待て。このステッキは、見たところ普通のステッキのようだが、実はなかなかたいへんなステッキなのだ」
「え、たいへんと申しますと」
「うん。このステッキの中には、精巧な無電装置が仕掛けてある。これをもってゆき、こっちと連絡をとれ。しかし、むやみに使ってはならぬ」
「はい、これは重宝なものを、ありがとうございます」
「なお、このステッキは、いよいよ身が危険なときに、身を護ってくれるだろう。あとからこの説明書をよんでおくがいい。しかしこれも、むやみに用いてはならない」
といって、原大佐は一冊の薄いパンフレットをわたしたが、どこからどこまでも行きとどいたことであった。
「では、いってまいります」
「おお、ゆくか。では頼んだぞ。日本を狙う悪魔の正体を、徹底的にあばいてきてくれ。こっちからも、必要に応じて、誰かを連絡のために向ける。とにかく何かあったら、その無電ステッキで知らせよ。こっちの呼出符号は、そこにも書いてあるとおり、X二〇三だ」
「X二〇三! ほう、二十三は、私の年ですから、たいへん覚えやすいです」
乱暴な怪漢
熱帯にちかい香港に、太刀川青年がぶらりと姿をあらわしたのは、七月一日であった。壮快な夏であった。海は青インキをとかしたように真青であり、山腹に並ぶイギリス人の館の屋根はうつくしい淡紅色であり、そしてギラギラする太陽の直射のもと、街ゆく人たちの帽子も服も靴も、みな真白であった。どこからともなく、熱帯果実の高い香がただよってくる。
太平洋横断アメリカ行の飛行艇サウス・クリパー号は、湾内にしずかに真白な翼《つばさ》をやすめていた。それはちかごろ建造された八十人乗りの大飛行艇で、アメリカの自慢のものだった。
太刀川は、四ツ星漁業会社の出張員という身分証明書で、この飛行艇の切符を買うことができた。
七月三日、いよいよサウス・クリパー機の出発の日だ。
太刀川は、朝九時、一般乗客にうちまじり、埠頭からモーター・ボートにのって、飛行艇の繋留《けいりゅう》されているところへ急いだ。
モーター・ボートが走りだしてから、太刀川はあたりをみまわしたが、まるで人種展覧会のように世界各国の人が乗りこんでいる。アメリカ人イギリス人はいうに及ばず、ドイツ人やイタリヤ人もおれば、インド人、黒人もいる。また顔の黄いろい中国人もいた。日本人は、彼一人らしい。
「ああ痛! ああ痛! 足の骨が折れたかもしれねえぞ。だ、誰だ、俺の足を鉄の棒でぶんなぐったのは」
太刀川の[#「 太刀川の」は底本では「太刀川の」]耳もとで、破鐘《われがね》のような大声がした。それとともに、ぷーんとはげしい酒くさい息が、彼の鼻をうった。すぐ隣にいた大男の白人が、どなりだしたのであった。ひどく酔っぱらっている。このせまい艇内では、どうなるものでもない。
太刀川は、面倒だとおもって、酔っぱらい白人の肘でぎゅうぎゅうおされながらも、彼の相手になることを極力さけていた。
「な、なんだなんだ。誰も挨拶しねえな。さては俺を馬鹿にしやがって、甘く見ているんだな。俺ががさつ者だと思って、馬鹿にしてやがるんだろうが、金はうんと持っているぞ、力もつよい。えへへ、りっぱな旦那だ。それを小馬鹿にしやがって――」
「おいリキー。おとなしくしていなよ」
リキーとよばれたその酔っぱらいの向こう隣に、身なりの立派な白人の老婆がいて、リキーをたしなめた。
「だって、大将――いや、ケント夫人! 俺の足の骨を折ろうとたくらんでいる奴がいるのでがすよ。我慢なりますか」
「おいリキー。あたしは二度いうよ。おとなしくしておいでと」
この老夫人の言葉は、たいへん利いた。リキーは、ううっと口をもぐもぐさせて、ならぬ堪忍を自分でおししずめている様子だった。リキーには、この老夫人が、苦手らしい。それは多分リキーの主人でもあろうか。
この老夫人ケントは、たいへん立派な身なりをしていたが、この暑いのに、すっぽりと頭巾をかぶり、そしてよく見ると、顔中やたらに黄いろい粉がなすりつけてあり、また顔中方々に膏薬を貼ってあった。ことに、鼻から上唇にかけて、大きな膏薬がはりつけてあり、そのせいかたいへん低い鼻声しか出せない。太刀川は、ケント夫人が皮膚病をわずらっているのであろうと思った。お金がうんとあっても、病気に悩んでいるらしいこの老夫人に同情の心をもった。
「やや、なんだ、鉄棒かとおもったら、この安もののステッキが、俺の向脛《むこうすね》をぐりぐりぶったたいていたんだ。けしからんステッキだ」
酔っ払いのリキーが、またどなりだした。そのとたんに、太刀川がついていたステッキが、あっという間につよい力でもぎとられた。リキーは、それを頭上にさしあげた。
「このステッキは、誰のか。俺の向脛を折ろうとしたこのステッキは、一体誰のか。さあ名乗らねえと、あとで見つけて、素っ首をへし折るぞ。ええい、腹が立つ、この無礼なステッキを海のなかへ叩きこんでしまえ」
リキーは乱暴にも、ステッキを海中へ投げこもうとした。
「待て。それは僕のステッキです」
太刀川は、さっきから、そのことに気がついていたが、どうしたものかと考え中であった。大任を持つ身の[#「持つ身の」はママ]、こんな小さなことで喧嘩したくはなかったが、原大佐から親しくさずけられた貴重なステッキを奪われ、海中になげこまれたのではもう我慢ができない。
「な、なんだ。貴様のステッキか。じゃ貴様だな、俺の向脛を叩き折ろうとしたのは。さあ、なぜ俺を殺そうとしたか。この野郎、ふざけるな」
「ステッキをかえしてくれたまえ」
「いや、駄目だ。おい放せ。ステッキは捨ててしまう」
「いや、かえしてください」
太刀川は大男の手からステッキをもぎとった。
これを海中へ捨てられてなるものか。
「あ痛。うーん、貴様、案外力があるな。よし、それなら決闘を申しこむぞ。俺はこのモーター・ボートが飛行艇につくまでに貴様の息の根をとめにゃ、腹の虫がおさまらないのだ。さあ、来い」
「リキー、およしよ。三度目の注意だよ」
老夫人が、にがにがしい顔で、リキーの横腹をついた。リキーは、いまや太刀川の頭上に、栄螺《さざえ》のような鉄拳をうちおろそうとしたところだったが、このときうむと唸《うな》って、目を白黒、顔色がさっと蒼ざめて、その場にだらんとなってしまった。
太刀川は意外な出来事に眼をみはった。彼は、リキーになにもしないのに、伸びてしまった。結局、老夫人ケントがリキーをどうかしたらしいのであるが、あの弱々しい老夫人には似合わぬ腕節《うでっぷし》であった。
あやしい老夫人の腕力!
暗号無電
太刀川は、飛行艇にぶじ乗りうつることができた。
飛行艇サウス・クリパー号は、六つの発動機をもっている巨人艇である。見るからに、浮城といった感じがする。
金モールのいかめしい帽子を、銀色の頭髪のうえにいただいているのが、艇長ダン大佐だった。彼は欧州大戦のときの空の勇士の一人として有名な人物だった。
太刀川が入った客室には、二十四人の座席があった。彼が座席番号によって、自分の席をさがしていると、ダン艇長がつかつかとやって来て、
「おお太刀川さん。あなたの座席はここですよ」
といって、自ら案内してくれた。それは室の一番隅の席であった。
「やあ、すみません」
「いえ、こんなところでお気の毒ですが、きまっているので我慢してください。私はニューヨークの郊外に家をもっていましてね、私の家の隣が、あなたの勤めていらっしゃる四ツ星漁業の支店長花岡さんのお宅なので、いつも御懇意にねがっているのですよ。あなたもどうか、御懇意にねがいます」
そういってダン艇長は、大きな手で、太刀川の手を握った。知人のない太刀川は、思いがけない艇長の言葉に、たいへん嬉しさを感じた。
室内へ入ってくる乗客をじっと見ていると、ずっと遅れて、例の酔っぱらいリキーとケント老夫人とが入ってきたのには、ちょっと不愉快になった。
「さあ、どけ。こんなところで何をしてやがる」
たちまち室内にひびきわたるリキーの怒号の声!
間違ってリキーの座席にすわっていた若いインド人夫妻が、締め殺されるような悲鳴をあげて、太刀川のいる方へ逃げてきた。
「どうしました。あなたがたの座席番号は?」
と、太刀川がきいてやると、二人はよろこんで、まだぶるぶる慄える手に二枚の切符をもって、さしだした。
「四十七号と四十八号。それなら、私の前です。私は五十号ですから」
インド人夫妻は、うれしそうに、いくども礼をいって、太刀川の前に座をとった。
眼をあげて、リキーの方をみると、かの二人はようやく落ちついたようであった。すなわち、太刀川のいるところと真反対の一番隅に、老夫人がふかく腰をおろし、通路に近い方に酔っぱらいのリキーがすわっている。
そのうちに、出発の時刻がだんだん迫ってきた。
はげしく、賑やかに銅鑼《どら》が鳴りだした。乗客たちは、飛行艇の窓から外をのぞきながら、小蒸気の甲板にいる見送人と手をふり、ハンケチをふって、別れの挨拶をする。
「出航用意!」
艇長ダンの声が聞えた。
太刀川の席のすぐ向こうに、艇長室があるらしく、彼の命令する声がひびいてくる。しかしこれはよく調べてみると、艇長室と彼の席のすぐうしろの壁との間に空気ぬきのパイプが通じていて、それがあたかも伝声管のような役目をして、向こうの声がこっちへ伝わってくるものだとわかった。
発動機は、轟々《ごうごう》と音をたてて廻りだした。いよいよ太平洋を西から東へ、一万四千キロの横断飛行が始るのである。
「出航!」
号令とともに、飛行艇は海上をすべりだした。
スピードは、ぐんぐんあがる。
艇のあとにひいた夥《おびただ》しい泡が、はたとたち切れると、艇はすーっと浮きあがった。空中の旅が始ったのである。見下す海面は、ガラス板のように滑らかであった。
どこかで、無電をうっているらしい音が、しきりにする。
ふりかえると、いつの間にやら、香港一帯が箱庭の飛石のように小さくなった。発動機の振動が、微かに座席にひびいてくるぐらいで、全く快い空の旅であった。
酔っぱらいのリキーは、大きな鼾《いびき》をかいて寝こんでしまった。老夫人もその隣で、じっと睡《ねむ》っているらしい。室内では、乗客たちがだいぶん落ちついて、あっちでもこっちでも、しずかな談話をはじめたり、チョコレートの函をひらいたりしている。しかし艇員が出入に防音扉をあけるごとに、轟々たる発動機の音が、あらゆる話声をふきとばしてしまう。だが、なんという穏やかな空の旅であろう。
それから一時間たった。
艇は、針路を南東にとって、一路マニラにむけて飛行中であった。すでに陸地はとおくに消えてしまって、真青な大海原《おおうなばら》と、空中にのびあがっている入道雲との世界であった。その中を、飛行艇サウス・クリパー機は翼をひろげ悠々と飛んでゆく。
「艇長、本社から無電です」
「なんだ、ニューヨークの本社からか。ほう、これは暗号無電じゃないか、なにごとが起ったのか」
艇長は、しばらく黙っていた。暗号を自分で解いているらしかった。
「事務長をよべ」艇長の声は、甲高い。
「艇長、お呼びでしたか」
「うん。本社からの秘密無電だ。えらいことになったぞ。これを読んでみろ」
「はい」
前へ
次へ
全20ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング