姿だ。見れば、それはイワンという一等水兵だった。
 相つづく怪事にさすがのケレンコも目をみはるばかりであった。
「イワン、どうした。太刀川はどこにいるのか。――おい、みんな、早くこの二人の綱をといてやれ」
 綱だと思ったのは、電灯の線だった。
 大男のリーロフは、猿ぐつわを靴の下にふみにじって、くやしそうに歯がみをした。
「委員長。あの太刀川めに、またやられました。あっという間に、私たち二人は投げとばされ、腰骨をいやというほどぶっつけたと思ったら、あのとおりひっくくられてしまいました。そして彼は、イワンの服をはいで着かえると、この入口から外へでていってしまいました。さあ、早く手配をしてください」
 太刀川青年は、水兵服をきて、たくみにこの部屋からのがれたというのだ。なんという豪胆さ、なんという早業!
 ケレンコたちも、「ええっ」といったきり、しばらくは茫然と顔を見合わせるばかりだった。


   見なれない当番水兵


 太刀川時夫逃げ出す!
 ケレンコは、ようやく我にかえると、卓上電話で要所要所に非常線をはらせるように命ずるとともに、ひきつれた十人の部下に、一等水兵イワンをつけて、太刀川の行方をさがさせることにした。
 要所要所をかためてしまえば、いくら逃げまわったところで、要塞外に逃げ出すことは出来ないのだ。
 ケレンコは、もうふだんのおちつきをとりもどしていた。
 潜水将校リーロフは、一さいの手配をおえると、むしゃくしゃしながら自分の部屋へかえった。腰骨のところもいたいが、それよりも、あの小男の太刀川にとっちめられたことが、しゃくにさわってならないのだ。彼はつよい酒をとりよせて、大きなコップでがぶがぶやった。
「うーん、いまいましい日本の小僧だ。こんどつかまえたら、おのれ………!」
 酒壜は見る見る底が見えてきた。
「なんだ。もうおしまいか。たったこれだけじゃ、第一酔いがまわってこないじゃないか、うーい」
 そうはいうものの、顔は、もうトマトのように赤かった。
 そこへ電話のベルがじりじりなりだした。
「ええい、うるさい」
 リーロフは、空の酒壜を逆手《さかて》にとって、電話器になげつけた。
 壜はがちゃんとわれて、破片が、そこら一面とびちったが、電話のベルはなおもじりじりと、なりつづける。
「ふーん、またケレンコの呼び出しだろう。うるさい大将だて」
 リーロフは、ふらふらと立ち上って、電話器のところへいって、受話器をとりあげた。
「はあ、リーロフです。え、なんですって。さっき沈めたイギリスの商船の中から、こっちで使えそうな貨物をひっぱりだせというのですか。なに、私にその指揮を? ふーん、私はそんなまねはいやでござんすよ」
 リーロフは、もうぐでんぐでんによっていた。受話器をもったまま、かたわらの安楽椅子のうえに、だらしなく尻をおろした。やはり電話の相手は、ケレンコ委員長であった。
「いいえ、ちがいますよ、委員長。私は酒なんぞに酔っていませんよ。第一酔うほどに、酒がないじゃありませんか」
 といっていたが、その時ケレンコからなにをいわれたか、急ににやりと笑顔になって受話器をにぎりなおした。
「え、ガルスキーを免職させて、私を副司令にもってゆく。そりゃほんとうですか。ははあ、そいつはわるくありませんよ。この仕事はじめに、潜水隊員をひきいて、沈没商船のところへゆけというのなら、ゆかないこともありませんね。――なになに、その沈没商船は私のすきなイギリス産のすてきなウイスキーも積んでいるのですか。ほう、そいつは気に入った。それにしても委員長は、人をおだてるのが相かわらずうまいですね。よろしい、新任副司令リーロフ大佐は、これよりすぐ、海底へ突撃いたします、うーい」
 リーロフは、さっきにかわるにこにこのえびす顔で、受話器をがちゃりとかけた。
「はっはっは。まるで幸運が、大洪水のように、流れこんで来たようなものだ。副司令にはなるし、沈没商船のどてっ腹を破ると、ウイスキーの泡がぶくぶくとわいてくるし。いや、ウイスキーに泡はなかったな。どれ、しばらくぶりに、太平洋の海底散歩としゃれるか」
 彼は、このうえない上機嫌で、伝声管を吹いて、潜水隊員に出動の命令をくだした。それからよろめく足をふみしめて、戸棚をひらいた。そこには、奇妙な形をした深海潜水服が三つばかりならんでぶらさがっていた。いずれもケレンコ一味がほこるすこぶる優秀なものであって、これを着ると、上からゴム管で空気を送ってもらう面倒もなく、自由に海底を歩きまわれるものだった。それは大小さまざまのタイヤで人体の形につくったようなものだった。そして頭にかぶる兜みたいなものは、ばかに大きくて、その中に酸素発生器が入っていた。
 リーロフが、その潜水服の一つをひきずりおろして、足を入れてい
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