人体解剖を看るの記
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)恥を曝《さら》さないで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ピッチリ[#「ピッチリ」は底本では「ピツチリ」]合わさった
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 僕は最近、はからずも屍体解剖を看るの機会を持った。僕の友人に、慶応の生理学の先生である林髞博士というのがあるが、この林博士は前から僕に屍体解剖を見物するように薦めてくれたのであった。僕はもちろん見たいには見たかったのだ。しかし困ったことに、いくら見たくとも、それは芝居や犬の喧嘩を見るように簡単にはゆかないのである。つまり胆力という問題、換言すれば、脳貧血になるかならぬかという問題が存在するため、手軽に「では見せて貰いましょう」というわけにはなかなかゆかないのである。
 ところが最近、僕は思いがけないチャンスをつかんで、とうとう解剖の始めから終りまで見てしまった。お医者さまには一向珍らしいことではあるまいが、僕にはたいへん興味あることだった。それで僕は、素人としての印象記をここに録してせっかくのその日の記憶が薄れてしまうのを防ごうとするものである。
 僕はその日、或る用件のため、或る病院で働いていた。ところが看護婦が知らせてくれたところによると、その夜、病院に於て他殺屍体の解剖があるという話である。これは全く珍らしいことである。私も病院で働いている上からは、直接関係はなくとも、人体の解剖ぐらいは見て置いた方が参考になると思い、その始まるのを待った。
 日がとっぷり暮れて、電灯がついた。
 大勢の警官が、続々と入ってきた。
 解剖は、階段教室で行われた。病院の職員、看護手、看護婦などが、警官の邪魔にならぬように、すこし後方に席をとった。
 検査官一行も到着して、解剖台のすぐ前の席に腰を下ろした。その後から大きな鞄を持った助手を従えて、今夜の執刀者である警察医が入ってきた。
 それにつづいて運搬車のうえに載せられて、屍体が入って来た。白布をとれば、その下に裸体の若い男性屍体が現れた。年のころ十五六でもあろうか。五厘刈にした丸顔の可愛いい少年だった。
 屍体といえば、僕たちは臘細工のような青い身体を想像するのであるが、この屍体はそうではなかった。顔も唇も赤々として、まるで眠っているとしか考えられない。聞いてみると、この屍体は井戸の中に漬っていたのだそうで、時間も三十時間ぐらいしか経ってないということだった。
 僕はこの解剖の終了するまでのうち、一番気もちわるく感じたのは、この解剖前の屍体を見ているときだった。それはどういうわけだか分らない。とにかく遠くの方から、脳貧血という魔物が、しのび足に寄って来て、すぐ背後のところでニヤニヤと笑っているような感じだった。いつぶっ倒れるかしれないといった不安が、僕を脅かした。このまま室を出ていった方が恥を曝《さら》さないですむぜ、と囁く声が聞えるようであった。
 でも、折角《せっかく》ここまで怺《こら》えたのである。しかも僕とても、将来このような人体を対象として研究をつづけなければならぬ職をもつ身ではないか。そう思うと、このまま出てゆくことが躊躇せられるのであった。
「いよいよいけなくなったら、この階段に横にゴロリと寝てしまおう」
 僕はそう思った。
 そうこうしているうちに、警察医はもうすっかり身仕度をととのえた。襯衣《シャツ》を肘の上までまくり上げ、手には長いゴム手袋をはめ、その上にまたもう一つ、白い絹らしい布で出来た手袋をはめていた。そして胸には、白い手術着をつけた。それだけであった。病人の手術とは違って、それは実に簡単な服装だった。
 それから警察医は、大きな鞄の口をあけた。中からは、果して解剖器具の入った大きな銀色の函を取り出した。蓋を払ってから、彼は中からメスを何本かと、その外なにかよく分らないが、ピカピカ光るいろいろの器具や、糸などを取出し、それを屍体が載っている解剖台の上に置いた。ガチャガチャと金属製の器具がすれ合う音を聞いていると、いよいよいけなかった。もしあの少年が仮死であって、医師が執刀すると同時に、キャーッとか叫んで立ちあがったとしたら、どうだろう。そう思った瞬間、僕の身体の重心が、どこか身体の外に移ってゆくような気がした。
 医師はピカピカ光る解剖の器械をことごとく揃えた。彼は立ち直って、解剖の屍体に近づいた。室内は俄かにザワついた。
 医師はピンセットの大きいのを右手にもって、屍体の顔をジッと見た。それから屍体の瞼をピンセットの尖《さき》でつまみ、皮をクルリと上にまくって、眼球をしらべた。右の眼も、左の眼もそうした。
 それから同じくピンセットを使って、鼻孔や口の中を調べていた――ように記憶する。記憶するというのは、ちょっと申訳がないが、実はいよいよたいへんなことが始まったぞというので、僕の胆玉は上がったり下ったりして、現場を逃げだそうかどうしようかと思案に暮れていたときなので、その辺はハッキリ覚えていないのである。只、あれが生きている人間だったら、さぞ痛いことだろうと思ったことである。
 それから医師は、ピンセットの尖で、全身に渡って皮膚を軽くおさえながら、熱心に観察をした。目の孔も調べたようだ。
 それがすむと、傍に向って、手をあげた。すると白衣の助手が、屍体の向う側に廻って、腕と脚とをつかんで横向きにした。いや、横向きではない。とうとう背中を上に向けた。すると少年の顔が横に傾いた。白い手術台の上に、薄赤い液体がトロトロと流れだした。それは屍体の口と鼻のなかから流れだしたものだと分った。なんともいえない臭気がプーンと漂ってきた。
 医師は、背中を一応しらべた。それから後頭部にある打撲傷のような血の滲《にじ》みが見えるところに眼を近づけた。
 それから屍体は、また元のように上に向け直された。そして今度は頭の下に、枕があてがわれた。
 ピンセットが下に置かれた、医師の右手に大きなメスが握られた。――いよいよ始まるのである。僕の心臓は停りそうになった。
 しかし解剖医は逡巡《しゅんじゅん》も興奮をも示さず、きわめて自然にメスをあげて、屍体の右の耳の上に当てた。そしてそのまま、頭の上の方へスーッと引いた。なおも力を抜かず、そこから向う側にメスを廻して、左の耳の上までスーッと一と息に引いた。五厘刈の下から、白い筋が見えてきた。頭骨が現れたのである。こうして耳から上が、縦に立ち切られたのであった。
 医師はそこでメスを置いた。そして、頭部の皮の裂け目に手をかけて、蟇口《がまぐち》をあけるようにサッと前後へ剥《は》がした。その下から、白い頭蓋骨が、まるで彩色をしてない白い泥人形の頭のようにまるまると現れてきた。とたんに僕は気が強くなった。
 メスをさっと下ろした瞬間、僕は非常に厳粛な気持になったのである。なるほど、人間というものは実に悧巧なものである。よくこういう医科学を研究したものだと思った。そして二三ミリもある頭の皮がサッと二つに分かれても、もう恐ろしくはなかった。まるで屍体の感じがしなくて、人形のような感じがした。さっきアリアリと僕の心を打った少年の顔かたちが今は俄かに印象が淡くなった。第一、少年は、依然として穏かに睡っているような顔をしているのである。少年の死因を親しく検べて呉れるこの警察医に、心から感謝の意を表わしているようにも見えた。――
 メスが手伝って、象牙のように白い頭蓋骨は、耳から上部に於て、全く皮膚と離れてしまった。すると医師の右手には、メスの代りに西洋鋸が握られた。
 大事に大事に、太い竹の根を切るように、その顔は頭蓋骨に鉢巻させるように溝をつけていった。ゴシゴシゴシと深刻な響が、シーンとした解剖室の中にひびき渡るのであった。助手は屍体をまた裏がえして、警察医が頭蓋骨を切りよいように手伝った。
 こうしてグルッと溝の鉢巻ができた。
 すると医師は鋸を傍に置き、その代りに小さな鑿《のみ》と金槌とを左右の手に持った。
 見ていると、その鑿は溝の上に当てられた。そして鑿のお尻を、金槌がコンコンと叩いた。助手が屍体をグルッと廻すと、医師の持つ鑿もまた溝をグルッと廻ってゆく。そしてまた屍体が上向きにされたとき、鑿の作業は一ととおり終了した。いよいよこれから、溝を入れたところから、頭蓋骨を外すらしい。
 そのとき解剖医は、屍体の頭の方に廻った。見ると手には、片方がかすがいになったような金具をもっていた。その先端は、二つに裂けているようであった。そのかすがい様のものが、溝にひっかけられた。そこで医師は力を籠めて、頭蓋骨を引張った。
 すると、帽子が脱げるときのように、お椀の形をした頭蓋が、医師の手許の方へ開いた。パカッというような音がし、それにつづいてパリパリと脳膜が剥がれる音が聞えた。
 お椀のような頭蓋骨が、下に落ちると、頭蓋腔の中から、灰白色の脳がとびだしてきた。脳というのはこんなものかと思うほど、見かけは簡単な詰らないものである。太い蚯蚓《みみず》がもつれ合っているような豊かな皺《しわ》が見え、そして縦に二つに分かれているのがよく見えた。
 医師は、頭蓋骨の中から、それを切りはなした。延髄の下の方を切ったように見えた。医師はその脳を両手の中に入れて、解剖台の上に置いた。
 それからメスが閃《ひら》めくと見る間に、脳は縦に二つに切られた。まるで豆腐を切るような楽さであった。切断面を見ると、内部には白い髄体が見えた。そこには皺はなく、ギッシリと髄体がつまっていた。
 切り放された一方の脳は、こんどは横にズタズタに切りさいなまれた。これは奴豆腐を作るときの要領と同じことであった。こんな調べを経て脳の表面にもまた内部にも何等の異常がないことが分った。全く有難いものであると思った。ここまでやって貰わないと、死因なんてものは全く安心ならないものだと深く感動したことである。
 医師は、切り開いた頭部をそのままに放置して、今度はまた元のように、屍体の脇に位置を移した。これからいよいよ腹腔にかかるのだということが分った。その辺で一度大きな呼吸をしてみたくなった。
 しかし解剖医は一秒も無駄にしない。頭の皮を剥《む》いたり、鋸を引いたり、鑿を使ったりして、ずいぶん力を使ったろうと思うのに、彼はなんの疲労も顔に現さない。何の表情もない。その姿はまことに神々しいものであった。
 医師はメスを右手に持って、咽喉の下のところから、胸、腹、臍《へそ》と、身体の真中をズーッと切り下げた。メスは一度に使うのではなく、腕を一とふりしてサーッと十センチほど皮膚を切ると、またその続きをサーッと腕をふるうのであった。これをくりかえし、下腹部にまで及ぶと、そこでメスは停った。これだけみていると、メスの切れ味の並々ならぬことがよく分った。それとも人体というものは、そんなに切りやすいのであろうか。
 解剖医は、そこで切った皮膚と筋肉とを左右に開いた。これは洋服の釦《ボタン》を外して両方へ展《ひろ》げるのと、なんの異るところもない。洋服の場合は、その下から襯衣が見えてくる代りに、この屍体の場合には、下からは筋肉や内臓が飛びだしてくるというだけの相違である。
 もちろん内部は真赤だ。
 しかし僕はそんなに愕きはしなかった。内部は、魚の腹を開いたのと同じようなものである。また兎の解剖でみたのと、大同小異であった。ただこれは、人間の腹の中だという所属的の違いだけのことで、愕くほどのことはなかった。しかし内臓はなんとなく内部から外方へプリプリと飛び出してきたような感じがした。
 医師はそのときメスを上の方へ戻して、胸のところを丁寧に開いた。そして左右の肋骨《ろっこつ》の上を、メスでもってスーッスーッと二本の筋を引いた。それから手でもって、胸骨を、まるで蓋をとるような塩梅《あんばい》で外した。するとなかからは、肺臓と心臓とが顔を出した。後から考えてみると、このとき胸腔と腹腔との中は真赤だったのだ。しかし実際このとき僕は、すこしも赤いということを感じなかった。赤
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