いのが当り前に感じられた。というか、それとも何もかも、あまりに赤くて、全体的な赤さが、僕の赤に対する感覚を麻痺《まひ》させてしまったという方がいいかも知れない。
この屍体が、解剖学で習ったと同じような内臓を持っている当り前さ、それから医師が肋骨をまるで障子でも外すような手軽さで外したことの可笑し味と、この二つが僕の心に印象を植えつけただけであって、愕くことは一向になかった。
解剖医自身はもちろん少しも愕いてなどいない。
彼はまず盛んに長い腸を改めた。まるで網を漁夫が拡げてみるのと変りがない。それから彼は糸を出して、腸の一方を結び、そして切断した。それからメスを腸の切口に入れてスーッと開いていった。どこまでもどこまでも開いてゆく。それはどうやら腸の内容物を調べてゆくらしい。結局、腸は全部切り開かれ、その上でソックリ両手でつまみだされた。大腸というものは、文字どおりに大きく著しく目についた。
開かれた腹腔や胸腔は、依然として真赤である。胃袋や肝臓や心臓や肺臓が、いちいちそれとハッキリ分る。もし地面の上に腸の切れ端が落ちていたとして、それを見つけた自分が何だろうと思っていぶかっているうち、誰かがそれは人間の腸だぜと教えたとしよう。恐らく自分はそれがたとい十センチばかりの腸であったとしても、人間のものだと思えば、途端《とたん》に吃驚《びっくり》してウーンと気を失ってしまうであろうと思う。しかし只今の場合のように、次々の場面を経て、こう沢山の赤い内臓が並んでいるのでは、一向恐ろしく感じない。解剖医の白い手袋は手首の上まで血で真赤になっていた。しかも僕にはそれが血のように感じられない。何か赤インキの中へ手を突込んだのと一向変りがなく感ぜられるのであった。人間というものは、慣れるとこうも鈍感になるものか。僕はさきほどまで脅された解剖屍体をすこし軽蔑し、そしてすこし気をゆるませたのである。
医師は次いで胃袋を切り開いた。腸の場合と同じく、内容物を検しているのは明らかであった。胃の中は、なんだか暗灰色に見えた。しかし中には何も入っていなかったようである。かくして切開された胃袋は切り放たれて、また外に摘出された。そして腸の隣りに置かれた。
それから肝臓などがメスでもって切り放たれ、同じように外に置かれては、ズタズタに切り刻まれた。
心臓も取り出された。その中も入念に切り開かれた。
いよいよ問題の左右の肺臓が、切り放されて、身体の外に置かれた。これは更に入念に縦横に切開され、解剖医の眼はその上にジッと注がれた。
解剖を見ている者は、誰一人として声を出すものがない。床上に靴の音一つしないのである。なんにも音がしない。なんにも――とは、厳密にはいえないかも知れない。内臓を切り放し、外へ引出すときに、烏賊《いか》の皮をむくときのように、パリパリと音がするのであった。それは内臓を繋《つな》いでいる軟い膜が剥ぎ破られる音であろうと思った。
腹腔や胸腔の中が、だんだんがら空《あ》きになってきて、内臓は身体の横に、まるで野天の八百屋が、戸板の上にトマトや南瓜《かぼちゃ》や胡瓜《きゅうり》を並べたように、それぞれ一と山盛をなして置きならべられた。僕は不図《ふと》、それ等のものを直視した。すると、俄かに自分の脳髄がグッと掴まれるような感じがした。よくない傾向だ。脳貧血の先触れではないかと思うくらいだ。僕が油断をしたのがいけなかった。もう大丈夫と思って、それまでは張りつめていた心をすこし弛《ゆる》めたのがいけなかった。それで急に頭がフラついてきたのだ。
医師はなおも胸腔のなかを覗きこみながら、咽喉笛を切り取って、外にだした。それもやっぱり丁寧に切りひらかれた。それがメスの活動の最後だった。
内臓はすべて体外に出た。胸と腹との中は全く空っぽで、舟のような形になってしまった。少年の屍体は、なんだか寒《さ》む寒《ざ》むと見えた。
メスを下に置いた医師は、こんどは金属で作った湯呑み茶碗に柄をつけたような柄杓《ひしゃく》を右手に持った。そして助手に合図をした。
すると助手は、解剖台の下を探し、バケツを取出して、医師に渡した。医師はそれを左の手に受取って、再び屍体の傍に寄った。
なにをするかと見ていると、医師はその柄杓を、空っぽになった腹腔の中に入れた。そして水をすくうような恰好をして、バケツの中にうつした。ザーッと流れ込んだのは、赤い液体だった。もちろんそれは血液だった。
医師は血液をすくっては、バケツのなかに明ける。それを永い間くりかえした。柄杓をつけるたびにゴボッという音がする。そしてバケツにそれをあけるたびにサーッという音が聞えた。それは静かな室内に於ける只一つの音響であったためか、嵐のすぎさるような大きい響をたてた。僕は一生懸命に怺えていた。
バケツには、かなり多量の血液が溜ったらしかった。結局この柄杓は一ぱい何シーシーという容量が決っていて、何ばいの血液がすくいだされたから、屍体の血液の量は尋常であったか、それとも尋常でなかったかが判定せられるのであろう。
ここで解剖がたしかに一段落したように思った。
医師は助手をよんだ。助手は紙と鉛筆とをもって、医師の近くへ寄った。医師は彼にだけ聞えるような低い声でもって、なにか云うのであった。すると助手が鉛筆をうごかしてしきりと紙の上に記入した。いつしか医師の手には、キャリパーが握られ、内臓などが一々寸法をとられていた。
それも終った。
すると医師は、屍体の頭の方に廻った。そこに切り彫《きざ》まれている脳を両手で下から持ちあげて、頭の中に押しこんだ。その上を、例のお碗のような頭蓋骨で蓋をした。それから前後にひろげてあった死者の頭の皮を両方からグッと引きよせた。するとその頭の皮は、また元のようにスポリと頭蓋骨の上に被された。死んだ少年の顔が再び見えた。彼の少年は、自分が解剖されたことはすこしも知らぬような実に穏かな顔をしていた。
医師は鞄のなかから曲った針と長い糸とを出して、針にその糸をとおした。
それから耳のうえの頭の皮の裂け目のところに、針をプツリとたて、スーッと引張ると糸がのびて、その裂け目がピッチリ[#「ピッチリ」は底本では「ピツチリ」]合わさった。そうして頭の皮は端からドンドン縫い合わされていった。
それが済むと、医師は屍体の横に立った。そして今度は、外にならべてあった内臓を一つ一つ空洞になった胸腔や腹腔のなかに抛《ほう》りこみはじめた。その内臓の置かれる場所は、正確に、元どおりではなかった。函の中に、形のちがった大小の缶詰をつめこむときのように、ドンドン詰めこんでいった。その内臓は盛りあがって見えた。その上に、血にまみれたガーゼを二枚かけ、横に置いてあった障子のような胸骨と肋骨と一体になったものを、その上に置いた。もちろんそれは胸のところだった。
それから糸のついた針が、咽喉のところにプツリと通され、そしてドンドン下の方へ縫い合わせていった。まるでつめ襟《えり》洋服の前を合わせたような形であった。それがすむと、始めに見たと同じような少年の裸体となった。腑分けされたようには見えないほど、元の姿にかえっていた。医師はガーゼを湯につけて、それで屍体に附着している血痕をきれいに清めてやるのだった。
助手が白木綿をつなぎ合わせて作った繃帯《ほうたい》をもってきた。それを受取った医師は、まず屍体の頭に鉢巻をさせた。縫った傷口がすっかり下に隠れてしまった。繃帯のつづきは、後頭部を通って屍体の鼻の下から頤《あご》全体を包んだ。外に見えているのは、眼と鼻とだけである。
繃帯はなおも伸びて、咽喉をグルグルと巻いた。それから両の腕の下に斜めに懸った。それからまた胴をグルグルと巻いて、だんだん下に下って来た。
股のところまで包んで、繃帯まきは完全に終った。解剖台の上には、屍体の中から取り出した内臓の一片だに残っていなかった。ただ残ったのは、バケツに移した血液だけだった。
それから助手が、別のバケツに、何べんも熱い湯を搬んできた。その中で、医師はまず解剖器械を洗った。それから二重の手袋をぬいだ。
クレゾールを湯に入れた新しいバケツの中に、医師は静かに両手を入れた。そして丁寧にいくども手を洗った。それから血に汚れた手術衣を外した。
次に洗面器に、新しい湯を貰ってきて、その中に手をつけると、石鹸を十分につけてゴシゴシと洗った。そうして始めて手拭を出して、両手をよく拭った。
見物していた連中は、そこでハーッと溜息をついた。それは深い深い溜息であった。屍体を迎えるために、車のついた白い台が再び入口から入って来た。解剖医はもうその方には見向きもしないで、洋服の上衣に腕をとおしていた。――
こうして解剖は終った。
その後で、この医師から解剖でたしかめたところの報告がなされる筈であった。僕はすっかり満足して、席からたちあがった。そしてポケットから「暁」を一本ぬきだして口に銜《くわ》えた。
時間を見ると丁度一時間半経過していた。お医者さんもずいぶん疲れたことだろう。そう思って下を見ると、医師は入口の傍に立って、ただ一人うまそうに莨《たばこ》をすっていた。それはいかにもうまそうに見えた。
底本:「海野十三全集 別巻1 評論・ノンフィクション」三一書房
1991(平成3)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「シュピオ」
1937(昭和12)年1月号
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年6月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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